2017-05

”our side”と”other side” vol.1 - 2016.04.28 Thu

『やる気がないならやめろ』の記事に、最近の若い人たちが些細なことでくじけてしまったり、打たれ弱い姿が実際に多くなっているとのいくつか同様のコメントが寄せられました。

あの記事は指導する側の姿勢についてのことなので、直接的にテーマが関連しているものではないのですが、僕自身もその問題にはいろいろと考えるところがあるのでいい機会なのでまとめてみようかと思います。








実際に僕自身も、そういった若い人たちの姿に接してきました。
ちょっとした指摘でいじけてしまったり、反動でふてくされてしまったり、その関わり方には難しいものを感じます。
また、周囲の人からも、そういった若い人たちの根気や熱意のなさ、自主性・主体性のなさ、人付き合いの悪さ、一般常識に欠ける点などなど、とてもたくさん耳にします。

世間ではこれらを表して「ゆとり」「ゆとり世代」などと呼んだりもしていますね。
そこから、「”今時の若い者は”論」にしてしまっているものを多く見かけます。



この「”今時の若い者は”論」を僕は好きではありません。
「今時の若い者」を作ったのは、いつの時代も常にそれよりも前に生きている年長者であり、またその年長者たちが作り上げてきた社会であるからです。

それをおしなべて若い者に責任があるかのような結論にしてしまうのは、思考停止と同じことだと思います。


今時の若い者の問題の原因は、必ずそれ以前のところにあるはずなのです。
そこを見なければなりません。
しかし、それは多くの人にとって、自分たちの非や間違いを見つけ出しそれを認めることになるので、そのような思考をしたがらないものです。
だから、いつの時代でもこの「”今時の若い者は”論」は人気のある考え方なのでしょうね。





さて、ではここからが本題です。

今時の若者がなぜ、打たれ弱かったり、熱意が低かったり、逆ギレしたり、引きこもりやニートになったり、恋愛に関心が低かったり、友達を作ることに消極的だったり、飲み会に行きたがらなかったり、その他諸々の活力のない体質をもっているのか・・・・・・。
その理由はどこにあるのか?


これらの解は、実はたったひとつのことに集約されるのでした。



それが、タイトルに挙げてある「”our side”と”other side”」の感覚です。

(この概念は、心理学用語やどこかの本に書いてあることではなく、僕自身が考え導き出したことなので、他を当たっても出てこないだろうと思います。専門の研究者などがもっと適切な語で定義しているかもしれません、もしご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。)



ほとんどの人は、意識・無意識の内に、その対象の人が”自分の側”にいるのかそれともそうでないのかを判断して関わっています。

外であった人が、同じ県の出身だったり、同じ学校の出身だったりするとなにか親近感を感じてうれしくなったりしますよね。
それらは、意識的で明確な”our side”の認識です。

人は普段からもっと無意識の内に、この”our side”かどうかの判断をし続けています。


その人が”our side”と思えれば、その人と親しく付き合ったり、友達になろうと思えたり、その職場で頑張ろう、そこでの勉強や部活動などを頑張ろうという気持ちになることができます。


でも、もし”our side”と思えなければ・・・・・・。

その人は、「”our side”の人間ではないので、味方ではない」と無意識に思ってしまいます。


例えば、
その人は、そこでのなんらかの”些細な失敗の指摘”を、まるで自分への全面否定かのように受け取ってしまいます。

コメントで多く寄せられていた、職場に来る新人たちの打たれ弱さの正体は、ここにあるのです。




僕はこれまでにもしばしば、「同じマンションの住人に挨拶しても挨拶が返ってこない、その人たちが子供を育てるのは困難がともなう」という話をしています。


それらの人は、どういう思考・もしくは感情のプロセスを踏んでいるかというと、
マンションの廊下でそこの同じ住人とすれ違ったとします。

そのときその人の心の中で、「同じマンションの住人であるこの人は、自分の”our side”か?」という問いが瞬時に発生し、心が無意識にそれを判定しています。

そこで「知り合いではないけれど、同じマンションの住人であるその人は、”our side”である」とイエスの答えが出る人は、挨拶を返すことができます。


逆に「”our side”ではない。”other side”だ」とノーの答えが心の中で出る人は挨拶を返すことができません。



人間はそのような「”our side”か”other side”か?」の問いを、すべての他者との関わりの場面で常にし続けています。

しかし、現代において「”our side”と思える範囲」が、非常に狭くなってきてしまっているのです。



実はこの問題は、若い人たちだけの問題ではありません。
現在の祖父母世代の人たちにも少なからず見えている問題です。また、僕のような子育て世代は言うに及ばずです。
若い人たちは、それらの影響を子供時代から受けて、より濃縮されてしまっているのです。


また、職場の新人教育という視点で考えてみると。
いま就職してくる若い人たちは、「ブラック企業に入らないようにしなければ」といった実際の問題に直面してきています。また、圧迫面接といったことも現実にあるところで就職活動をしてきています。

その会社ではそういったことをしていないとしても、そのような警戒心は簡単にぬぐいがたいものとして少なからず残っている人もいるはずです。

だから、おいそれと「もう会社の一員になったのだから、この先輩や上司は”our side”なんだ」と脳天気には思えないことも不思議ではないでしょう。



「やる気がないなら来るな」という指導した先輩社員も、それは善意からしていることなのかもしれません。
しかし、その先輩と新人とは大した年齢の差はなくとも、生きてきた社会が大きく違っているので同じ見方ができないギャップがあるのでしょう。

僕が大学を出た頃は、就職氷河期と呼ばれるころでしたが、まだ小泉政権以前なので、「終身雇用」といった概念が少なからずあった時代です。

そのような頃を知っている人にとって、入った会社を”our side”と感じられることはそう難しいことではありません。
だから、そこでの厳しい指導をしてくれる先輩も「ああ自分のために一生懸命言ってくれているのだ、この人も”our side”なんだ」と思えます。

でも、いま現在の若者は、そのような人間観を持つことが困難な状況で育ってきているのです。


それは誰が悪いというものでもありません。
ただ、そういった現実を踏まえて、これからの時代の子育てや教育を見直していく必要がある時期に来ているのです。

そこに気づかず、物事の事象の是非だけを見ていくと、問題はなにも解決しないどころかますますこじれていってしまいかねないでしょう。

だから、この点について多くの人、特に子育てする人や子供を教え導く立場にいる人には気づいて考えていって欲しいと思います。


そういうわけで、もう少しこの問題について見ていきます。
ちょっと他の仕事が忙しくなってきているので、記事の続きは時間が空いてしまうかもしれません。

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● COMMENT ●

厳しい指摘をされて遠ざけられた年長者は、その若者にとって「アドバイスを受けるに値しない程度の人間である」
ということだと思います。
今時の若者論に頼るのは、年長者なら無条件に敬われるべきだという考えに囚われているためですが、その根拠が
「自分も我慢してきたから」というのはお粗末過ぎます。
今の若い人はとても冷静で賢い。年長者の甘えはちゃんと見抜いているなあ…と思いますよ。
老害おばさん認定されるのが非常に恐ろしいです(笑)

おとーちゃんさんの仰るour side, other sideは、社会人類学の中根千枝先生が「タテ社会の人間関係」の中で「ウチ」「ヨソ」と仰ったのに似ているような気がします。
また主題とずれますが、経済学の松山一紀先生が「日本人労働者の帰属意識」という本で、日本人の企業への帰属意識を浮き彫りにされています。

私は「”些細な失敗の指摘”を、まるで自分への全面否定かのように受け取ってしまう」のは、彼らが個性とか自分らしさを大切にと育てられたせいかなぁと感じています。
「あなたはどうなの?」と自分はどう感じるのか、どう考えているのかを意識させられてきたので、役割としての自分という意識がすっぽりと抜けてしまっているのかな、と思っています。

お礼

「次の記事」「前の記事」が復活しています!
ありがとうございます!

単純な感想ですが、打たれ弱いというのは、自己否定感が強いせいかと思います。
自分が自分を心の中で強く否定しているから、他者からの否定が最後通牒のように感じられるのではないでしょうか。逆説的に言えば他者から否定されることの傷を弱めようとして自己否定しているほどに、他者からの否定が怖いのです。

昨今の子育ては自己肯定感を育てましょうというのがスローガンのように語られます。
自分で自分を否定していれば、生きることが辛くなってしまうのは当たり前だからです。
親から条件付きでしか肯定されず、頑張って頑張って息切れしてしまったり、完璧じゃないと愛されないと思って完璧主義に陥ったり、新型うつと言われる状態になったり、存在をありのままに受け止められなかった子どもは いつまでも他者からの肯定が必要で、依存心を消せないまま大人になってしまいます。
甘えの欲求を抑圧して過剰に自立心を奮い立たせるような人もいますが、そういう人のメンタルが強いのかといえばそうではないのでしょう。
相対的に能力が高い人は別として、一般論として 打たれ強い、外界に左右されない自我を確立させるためには、もともと著しくコンプレックスを抱くようなことが本人になければ、親が存在を丸々肯定したり、夫婦喧嘩を見せないなどの環境を作ってあげることが第一だと思えます。
とはいってもこれは簡単なことではありませんよね。人間関係の問題というのはあとからあとから湧いて出るし、それが人間社会なのかなと思ったりします。

 

とても考えさせられる記事です。
そしておとーちゃんさんが仰ることに同意します。

同じマンションで挨拶しないママさんたち、仲良くなってみると「とにかく周りが敵に見えているんだな」と痛感させられます。
自分の子供も敵という人もいます。(「将来私はこの子に殺される」と仰る方も…)
そしてそういうママさんの母親もほぼ100%、挨拶をしない方です。
共通する価値観は、「家を行き来する関係なんてあり得ない(大変だから)」、「仲良しにだけ話をする」「負の感情を共有することで仲間意識を持っている」「義父母は嫌い」という感じです。
知らない人とにこにこしながら挨拶することすら「打ち解けないと出来ない」のです。


私は子供の教育のために、マンション内で会う方や保育園内で会う方には必ず挨拶をします。新聞配達の人や業者の人などでも。夫にもそのようにお願いしています。
最初は警戒心丸出しだったお婆ちゃん連中も、今では娘にバッグやお人形をくれたり、子供のことで私では気付かないようなことまで教えてくれたり、お身内の進路選択などの参考になるような話を聞かせてくれたり、天真爛漫に歌を披露する娘に面白がって賞賛してくれたり、使わないからとお皿や料理器具をくれたり、季節の花を折ってくれたりと、感謝するばかりの交流になっています。
両親ともに実家は遠方で、頼る者のいないなかで都心に住んでいますので、とても心強く励みになっています。
挨拶されない方たちは、これは偶然かもしれませんがお身内が近所に住んでる方ばかりなので、よそ様とこのようなお付き合いをする必要性を感じないのかもしれませんね。

しかし正直に書きますと、挨拶をしない方は、こちらがにこにこと挨拶をすることに対して、とても見下しているようです。
もしかしたら、私の外見のせいかもしれません。高齢だし、くたびれているし、オシャレなど全くしていませんし、太ってもいます。
しかし多分、にこにこと挨拶する=媚びへつらっている、という認識なんだなぁと思います。だから自分からは絶対にしない。
大陸の方はそういう感覚だと聞いたことがありますが、関連性ありますかね。
しばらくしたら打ち解けてくれるのだけど、仲良くなってくると「あれ?」と違和感を感じてくるのです。あ、見下されてたのね、と…半信半疑ですが、言動を総合するとそういうことなんだなぁと感じます。

挨拶しない者同士、どのように仲良くなるのかしらと見ていると、同じ状況に置かれた場合に初めて話すという感じのようです。our sideになる、という感覚なんでしょうね。

そのような狭い感覚で生きているのが、私にはとても不思議でなりません。
世の中のほぼ大多数の人が、自分と知り合いでも無く、敵でも味方でもないのです。何億人も、です。
その中で、自分の生活圏にいる人たちなんて、本当に限られた人数です。
子供がいれば、いつどこでその人と繋がるか、何かでお世話になるか、分かりません。「子供の学年が違うから知らんぷりしようっと。どう思われてもいいわ」と思っていたら、小学校の役員で関係するかもしれません、習い事でいるかもしれません、将来子供の就職先にいるかもしれません。未来のことは分からないのです。私は挨拶しない選択は無いと思っています。
にこにこと挨拶をしあい、名前は知らないが顔を覚える程度で構わないのです。そういう態度が、自分や家族を助けてくれると思います。

「周りはすべて敵」「にこにこしてくる奴は下心がある、もしくは人を騙そうとしている」「別に仲良くなる意義を感じない。必要性も無い」
思春期にはこういう時期がありますが、人の親になってまで思っていると、やはり、家庭も子育てもうまくいかないでしょうね。
人は人と繋がることで幸せを感じるものですし、何より子供はそれを欲していると思います。子供には母親だけが必要なわけではないです。

長文すみません。

今は色んな事件が多くて、子どもたちに知らない人にはついていくな、警戒しろ、と教えるので、other sideの意識は高まっていくと思います。挨拶を何回かしてour sideだと思わせておいて誘拐する、という事件もありますし、怖い世の中です。
しかし、その防犯のために一生懸命教えていることが、将来の自立を妨げている…。どうしたら良いんでしょうね。

今回の記事の内容は全く思い至らなかったことだったので、新しい視点が私の中に増えて考えが広がりました。

私は、ゆとり世代特有の人付き合いの方法は、自分たちが打たれ弱いメンタルが弱いことを知っているから、少しでも『入れ物のクッキー(こちらのブログからの引用)』を減らさないように慎重に生きている姿なのかなと考えていました。
飲み会に参加しないのも、挨拶をあまりしないのも、人付き合いを少しでも増やしてしまうとクッキーが足りなくなってしまうことを知っているから、人と付き合いたくても付き合えないのではないかなと。
かくいう私もゆとり第一世代なので、自己分析をするとこんな感じです。相手がとてもいい人でもクッキーは減ってしまうのです。
私の入れ物には穴が開いているようでクッキーを貯めても貯めても日々生活をするだけで出て行ってしまいます。
今ゆとり世代と言われている人たちは、入れ物に穴が開いてしまっている人がたくさんいるのではないでしょうか。新型うつと呼ばれるものがその典型のような気がします。自分の好きなことや楽しいことをして入れ物を埋めるのだけど、その好きなことや楽しいことをしている時でさえ穴の開いた入れ物からはクッキーがどんどん出て行ってしまう。だからよし貯まったと思っていざ自分のやりたくないことや仕事や勉強などをしようとするともうクッキーがない。だから遊ぶことは出来るけど、クッキーが全く貯まらないやるべきことみたいなものは出来ない。これが甘えや怠けに見えてしまう。
だからまたクッキーを貯めるために楽しいことをする。そうするとクッキーは増えるけど穴が塞がることはないからまた同じことの繰り返し。出口のない迷路のようです。
私は入れ物の穴を塞ごうと今は必死にもがいています。

挨拶って難しいです

若い頃は挨拶しなかったです。私。恥ずかしながら。
ただ、挨拶しなかった理由は、outsideの認定にかなりの労力と心労が伴うので、かなりしんどいからです。
他人の顔を覚えるのが苦手だから、誰が通りすがりの通行人で、誰が近所の人がいつまでたってもわからない。
挨拶するタイミングが最初に目があったとき(かなり遠い)か、近づいて来たときか、すれ違うときかわからない。
しかも勇気を振り絞って挨拶してもタイミングが悪いのかうまくいかない。
そんなこんなで、相手の顔をきっちり覚えるまでは挨拶しないほうが楽。
そんな感じでしたね。私は。

今でも苦手ですが、さすがに大人になったので頑張って挨拶してますが、たかが挨拶、されど挨拶。歩いてるときの視野が狭くて、他人の顔を覚えられない私にはかなりハードル高いですね。

なんせ、若い頃は隣をすれ違った兄弟にすら気付かないくらい注意力散漫でしたから。

そして子育てで派手に躓いたので、おとーちゃんさんの分析は、一理あるなと思ってしまいました(笑)。
視野が狭くてシングルフォーカス気味だと、挨拶も苦手だし、子育ても苦手になっちゃいますね。

まあ、自分なりに頑張るしかありませんが。

あと、そういう個人的なものとは別に、insideの領域がどんどん狭くなってるなとは、おとーちゃんさんのご指摘どおり感じます。

insideが狭くてoutsideが広がると、自分本意で他人の目を気にせず動けるシーンが増えるから、社会としてはまとまりにくくなる気がします。
その是非や行く末は私にはわかりませんが、自分の子供の世代が幸せに生きていけるといいなと思います。



いつも

いつも育児、保育のの参考にさせて頂いています。
質問させて下さい。
保育士おとーちゃんは、食事という行為の中にある、学びや教育、心の安定って何だと思いますか?

考えたこと

私はゆとり一歩手前、挨拶が苦手で一般常識のないほうです。
携帯電話・ネットの普及も関連あると思います。
私たちの時代はメル友という言葉が流行していました。ネットでは簡単に相手のホンネを聞くことが出来、それに慣れると現実において他人からホンネを引き出す(仲良くなる)手順の練習が不足、あるいは無駄に思えるかもしれません。
今の中高生はSNSが現実の延長線上にあるので、これはもっと若い人には当てはまらなくなるかもしれませんね。

しかし、そもそも。
上の世代には自主性・主体性があるのか。熱意があるのか。一般常識があるのか。
そのまた上から見れば、ないのかもしれませんね。
平均点が大好きで、自分を中流階級だと信じて疑わない日本人は、主体的で熱意のある子供が嫌いです。口では何とでも言えます。でもいざ自分の子がそうであると、やれ危ない、ダメ、いけない、静かにしなさい、そっち行かないの、怒られるよ!と。

みんな違ってみんないいというタテマエと、平均的な歯車でいろというホンネの中で教育がされていたように思います。使用者からすれば歯車に強度は必要でしょうが、実際に尊重・承認されてきたわけではないので、そんなに強くはありません。脆く、すぐに壊れてしまうことが自分自身で分かるからこそ、他の機構に組み込まれることを望むのです。ここではないどこかの。
それが叶わない歯車たちが、どんどん壊れているのではないでしょうか。
歯車に強度がないのは、歯車だという自覚がないからではないと思います。

私は、目を見て挨拶するのが苦手です。
克服に向けて、これを機に気をつけます。

友達も作れないご時世

ご指摘に共感します。

ふむりさんのコメントにもありましたが、「敵」に思えてしまうのでしょうね。

「優劣で点数をつけられて育つと、他者も優劣でしか評価できない」という話を聞いたことがあります。ママ友も「ライバル」だとか。同じ悩みを抱えて乗り越えていく「仲間」という感覚ではありません。

現代社会は、家社会や村社会の古い慣習から解放され、個人が束縛されない自由を求めたのだと思います。

しかし幸せになれずに人間関係が希薄になったことによる弊害が生まれています。

やはり人は人の中で幸せになるのでしょうね。わずらわしいこともあるけれど、頼り合って、感謝されたりしながら、自分の存在意義を見出だすものなのかなと思います。

私は「仲間」とか「友達」の付き合いが出来ない10代、20代が増えているのかなと思います。小学校のときに遊ばずに習い事ばかりしてたのかなと根拠もなく思っています。思春期もLINEのグループで会話するような表面的な関係だったのではと思います。面と向かって語ったり、体を動かして遊んだりしてるのかなと。友達できないから、恋愛も難しいし、社会に出てからも、仕事としての形式的(事務的)な関係性しか築けないのではないかと思います。それはとてもつまらなくて、苦しい生活のように思います。

あとは自己肯定感が低いのでしょう。自分の判断に自信が持てなくて、疑心暗鬼になっているのかもしれません。親の価値観に影響されているのかもしれません。

小さな成功体験をひとつひとつ積み重ねて、「自分でもやればできるんだ」、「自分は捨てたもんじゃない」、「こんな自分でも感謝してくれる人がいるんだ」という実感をいかに持てるかということを考えていかなくてはいけないかもしれません。

そして「孤独」は辛いですから、「困ったときは助けを求めていい」とか「他人に甘えていい」とか、人付き合いの長所を提示できるといいのかと思います。

(初めてコメントしたので、分かりやすいことが書けずごめんなさい。)

トラックバックさせていただきました

この記事を読んで、自分の気を許せる人が、狭まっているという印象を受けました。
知り合いになるかもしれないし、すれ違った時に挨拶程度はした方が良いと思っていたのですが
そもそも、そのような感覚でもないのだと思いました。

自分側の人間か、そうでないかという話において、思う事は子供が初めて自分側の人間と心代信頼をおける人が
母親という存在であると、本で読んだ事があるのですが
それと似ているという感覚を、持ちました。
自分を受け入れ、肯定してくれる存在が母親であり、その母親が周りの方とどう接していたかによって、子供は自分の内側の人
なのか自分の外側の人なのかを、覚えていくのだと思っています。

初めてコメントさせていただいたのですが、言いたい事が、上手くまとまりませんでした。
乱文の為読みづらいと思います。

挨拶が苦手という方が多くて驚きました。
当方コテコテの大阪。道を歩けばおばちゃんに「ボクどこいくの?」と声をかけられ、おじちゃんが自転車で追いかけてきて「これ食べ。毒入ってへんで」とお菓子をくれる世界です。
否が応にも近所の人は全員our sideになってしまいます(笑)。
当然子供たちは大人を信じ切り、黒塗りのベンツから出てきたコワモテにも「おはようございま~す♪」とやっています。

それはそれとして、仕事やその他必要な場面での役割責任はour sideだろうがother sideだろうが全うすることが大人の当たり前の姿だと思うのですがいかがでしょうか。

ふむりさんのコメント衝撃的でした!都会のマンションなのでしょうか?年配の方にさえも警戒されるんですね。。私の住んでいる地域は東京近郊ですが田舎なので、子連れだとおじいちゃんおばあちゃんに必ずと言っていいほど声をかけられ、いのうえさんと同じく否が応でもoursideです(笑)しかしこの記事読んで思い返してみると、70-80代の方から声かけられることが多いけど、親世代の60代は少ないかな〜と思いました。年をとると恥じらいがなくなるのかなと(失礼)思っていましたが、世代感覚の違いなのかもしれないのですね。とすると、だんだん声かけてくれる人も減ってしまうのでしょうか…。世知辛い世の中になってしまいますね。母乳育児をしていた時、自分の親世代より一世代上の祖父母世代の話しの方が参考になったという経験がありました。挨拶や周りとの関わり方についても同じかもしれないと思いました。


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