2017-03

”意見を表明する”ということ - 2015.08.13 Thu

「日本人は議論がへただ」とよく言われます。

会議などをしていると、まったく僕もそのように感じます。
ただ、「議論が”へた”」とか「口べた」という意味合いで、議論がうまくできないわけではないと思います。

議論に対しての前提条件というか、次元がそもそも議論を可能にしていないようなのです。







日本では、長いこと『和をもって尊しとなす』で来たためなのか、人と意見が対立することを好みません。
別にそれはいいのです。人と対立することを好まないのは、それぞれの向きなのですから。

問題はその一歩先です。
”対立する意見や、異論の存在までも認めないようとしない気質”
ここが大いに問題があるのではないかと僕は強く思います。

ひとつの意見に対して、「黒しか認めない、白と思う人間はグレーになって黙っておけ」、人々はどうも無意識でその地点にいるような気がします。

ですから、会議をしていたりして、反対の意見を出したとすると、それが”そのものごと”についての議論ではなく、「あなたが」「私が」という自分の存在をかけての戦いになってしまいます。

なので、そのものごとについての意見交換を深めるところにはいかずに、個人攻撃になってしまうことがよくあります。会議をしてもちっともいいものが生まれません。
議論がおわった別のときになってすら、派閥を作って対立してしまうこともあります。

このブログのコメントにすら、読み手が自分の意見に合わなかったとき、”自分そのものを責められている”と勝手に解釈して、書いてある意見に対してならまだしも、それを飛び越えて感情的に個人攻撃をしてくる人がいます。
これでは話し合いの俎上にのぼっていませんね。ただただ、放言や暴言を吐き捨てられるだけなので、なんともげんなりします。


対立するのが嫌な人は、最初から口をつぐんで長いものに巻かれてしまうし、如才ない人の場合は、あらかじめ根回しをしておいて落としどころをつけた上で、会議という形式を踏むだけにします。



「議論、話し合う、意見を交換する」の目的は、

「この意見よりももっといい考え方があるかもしれない」
「この意見は、多数の人で深め合うことでもっといいものになるかもしれない」
「周知し、皆で理解することで、よりよくそれを実行していく」

なわけです。


その前提には、
「違う考えを持った人がいる」、「ひとりひとりが違う感性でものごとをとらえる」

ということがあるはずなのですが、



日本人は、そう考えずに、前提として「意見には全員が同調すべきだ」という先入観があり、


「みなこの考え方に賛同するべきだ」
「みながこの意見に従うための確認作業」

を目的として、会議や意見交換を考えている節があるようです。



これでは、本当は話し合う意味はないのだよね。
そのあげくに違う意見には、恥ずかしげもなく個人攻撃で返すことが市民権を得ているものだから、気の強い人、声の大きい人以外はみな黙り込んでしまうようになっています。



ある人が「Aという考えを持っている」
別のある人が「Bという意見を持ている」

そういった意見を臆せずだせることが、本当はものごとを深めるためには大切なことなのではないでしょうか。

本当は、意見は必ずしもひとつでなくたっていいのです。
それをみなで話し合い、みぞを埋めていく作業こそが大切なのです。






そのようにみなが自分の意見を出せることが、この社会の基盤となっています。
とくに民主主義の社会とはそういうものです。

ひとりひとりが主権者なのですから、そのひとりひとりの意見はみな同じ重さを持っています。


「民主主義とは多数決のことなんだ」と思っている人は多いようです。
それはある部分では正しいけれども、微妙に違います。

民主主義の本質は、「意見を表明すること」もしくは「誰もが意見を表明できること」にあるのです。

「多数決」は、「AとBとCと……選択肢がありますよ、あなたの意見に合うものをどうぞ選んでください」と、その「人々が意見を表明できること」を簡潔にして準備してあるものです。そして同時に、それがその論に対する決定手段となっているわけです。

その本質にあるのは、「多数の人が選んだことが正しい」ということではなくて、「意見を表明できること」そのものなのです。





最近、流行の論法がしばしば見られます。それは

「反対するなら対案を出せ」

というものです。


これってなんだかちょっとおかしいと感じませんか。
これは、「高度な卓見を持っていないならば意見を言ってはならない」ということです。

よしんばその人が対案を出したとしても、それにきちんと耳を傾けるつもりのある人ならば、決してこのように脅迫的な弁論を用いることはそもそもありません。

つまるところ、この「対案だせ」という論法を用いる人は、相手の口をふさぎたいだけなのです。



”人に意見を言わないように圧力をかけていくこと”

これは大変に恐ろしいことです。


それはたとえ感情レベルの意見であってもいいのです。
「私はそれはしたくない気持ちがするな・・・」といった気分レベルのことでも、それを押さえつけ続けると、人間はだんだんと抑圧が高まっておかしくなっていってしまいます。

対案など出さずとも、「嫌なものは嫌だ」「いいものはいい」と言う権利がすべての人にあるのです。



「それが自分(もしくは大勢)の意見に合わないことだから言うな」という考え方が市民権を得ていくと、社会は「全体主義」になってしまいます。


「対案を出せ」は、論法としてとても”お粗末な”、もしくはとても”卑怯な”やり方なのです。
ましてや、いい年をした大人が、子供や学生に「対案を出せ」などというのは、大変情けないことです。
なぜなら、その対案を出さなければならないのは「いまの時代を担う大人」の役目だからです。自分の責任を棚に上げて、若者に「対案を出せ」などという大人であってはならないと僕は思います。
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● COMMENT ●

そんな考えもあるのですね!
私が学生時代には、代案をだしてから否定する、というのは新しい考え方で感動的ですらありました。
私は当時建築学部生でして、グループでひとつの作品を作るとき、否定するだけの人がいると何も作品が進まないものでした。
そんな時先輩が、否定だけするのではなく代案をだしてから否定しようと、むしろ建設的な案として提案してもらったもので。
件の代案だせという言う人たちも、そんな経験をしたひとなのかな?
当時の建築学科は、やたら哲学的で、偉大な建築家の影響をうけてました。
論戦で勝つ、ということが大事で、デザインはその結果についてくるというか。
デザインがとにかくいいから、というのは、大建築家かアーティストに許されたものという感覚でした。

日本には和を乱さないために、革新的な事に文句ばっかり言う人たちもいるので代案だす、というのはいいことだとばかり思ってたんですが、文句だけでもその中に大切な意見もあるかもしれませんね。

なるほど

私もことりさんと同じような考え方で、文句ばかり言う人には「代案を出せ」と言ってしまいます。
おそらくは、言い方の問題があるのだと思います。
議論のためには、パッと感じたことをそのまま口に出すのは危険です。議論のための言い方というか、マナーがありますから、子供のように直情的にものを言うと、それ自体が非難や反対論者の封殺になり得ます。
日本では家庭でも学校でも議論の仕方を教えないのだから、これは仕方のないことかもしれませんが…
感情をニュートラルにして話すというのは、練習しないと難しいですよ。感じないのとは違う。感じたことを一度頭の中で整理して、腹が立ったなら腹が立った事実を冷静かつ相手に分かるように述べるということです。
おとーちゃんさんが再三ブログで仰っている、「感情的に怒るな」とか「子供の人格を認めよ」ということにつながると私は思います。
日本人の多くは対等な関係を学んできませんでした。家庭でも学校でも社会でも常に上下関係が強く、強い少数が権力を握り、弱い者は愚痴をいい努力を放棄して依存的になります。
ちゃんとした言い方ができるまで意見をするなと言うのは、愚痴とは違う言い方を学ぶという意味では間違っていないと思います。ただし、「ちゃんとした」のレベルは大人になってからも習得できるぐらいであって、おとーちゃんさんの推奨する子育てをやってみようと努力できれば、そのすぐ先にあることだと私は思います。
このブログのような子育てが主流になれば、20年後には議論のできる日本になるかもしれないですね。うちにも4歳の娘がいますが、この記事を読んで、コメントを書いているうちに、未来の日本を担う人材を育てているんだなーと気付きました。

初コメント

いつも参考にさせていただいてます。

今回の記事を読んで、小学校時代の恩師の言葉を思い出しました。
日本人は議論して意見が対立すると、その相手とは議論が終わった後でも友好な関係を築くことが下手である。外国人は議論の場で白熱して対立しても、議論が終われば仲良く食事に行くとのこと(40年くらい前の記憶なので大体こんな話)

この話を聞いた時、このように意見が対立しても相手の人格まで嫌いになったり否定したりせずに、仲良く出来たらいいなと漠然と感じました。


しかしそれに抵抗がある人々が多く、私の振る舞いを「ケロッとしてる」「鈍感」と捉えられるこてもありました。


今は気にせず我が道を行ってますが(笑)


5才の娘は将来どんな風に考えるのか…


楽しみです

No title

こんばんは。

うちの隣は保育所です。毎年運動会の季節になると、「右ッ、左ッ、笑顔ッ!」「○○くんがおしゃべりしていたのでやり直しです」「遅いッ」「列が乱れています」という声が聞こえてきます。

笑顔なんて、楽しいから自然に出てくるもののはずなのに、先生に「笑顔!」と怒鳴られて欺瞞の笑顔を教えられているようです。

日本人の同調圧力は学校(保育所は学校じゃないですが)で育まれているように思えてなりません。

なるほど!

お父ちゃんさん、こんばんは
今回の記事、なんか新たな発見!という感じでした。
対案出せなきゃ、思ったこと言えないな~って思ってました。
けど、なるほど納得です。
私はこう思う、って伝えること大事ですよね。
3才過ぎた娘の自己主張、びっくりするくらいしっかりしてきました。思わず対案出してよ、って言いたくなるような時も(笑)
しっかり自分の気持ちに向き合える子になってほしいから、抑え込むような声掛けには気をつけたいな、と思いましたよ~。

ラジオ聞き逃しました~、残念!
来週は聞きたいと思います!


代案を出さなくてもよいかどうかは議論の目的によると思います。
まず問題があって、なんらかの意思決定のために集まっているならば、意思決定のための案を出すこと、誰かの案に賛成することは必須です。自分の案はなく、出された案に反対だけするならば、問題はないから現状維持をしようという意見表明をする、ということです。そう本人が理解しているなら、それでも良いと思いますが。
目的は意見交換だけで、その場で意思決定する必要がなかったり、叩き台作成のためのものなら、議論の場のオーナーが他者の意見を批判させないブレーンストーミングのような自由さを作ることが理に適っているのではないでしょうか。

大人数で集まって意見を出してみんながハッピーになる結論を出すというのは、誰も内容に強い思いがないことでなければ難しいように思います。

うーん

はじめまして。いつも楽しく拝読させていただいています。

おとーちゃんさんの周囲は記事にあるような感じなんですね。残念ですね。

私の回りは、少なくとも仕事するときはことりさんやなっちさんに近い感じです。…建築系ではないけれど、理系ばかりの職場です。

確かに人格攻撃や個人の否定はもってのほかだと思います。
しかしながら、ある提案に反対するとき、対案を出さずに、嫌だだけを言って、議論は進むのでしょうか。対案を求めないなら提案者はどうすべきとお考えでしょうか。
提案側はいいと思って提案しているわけで、反対する人が「自分は反対だから提案者が他の案を考えろ」というのならそれは無責任だと、私は思います。

対案が出せないなら反対するなとは言いませんが、反対するならどうしたらいいか、どうしたいか考えて欲しい。反対者が自分で考えて反対なら、何か根拠があるはずです。そこから考えれば、必ず対案は作れると思います。

因みに幼子に対案を出せとは思いませんが、大学生なら不完全なものでもいいから考えて欲しいです。もう大人です。それに、今考えようとしないなら、時代を担う立場になっても考えられないと思います。

興味深いです。

議論を承認欲求を満たすためや自分側に有利に事を進めるためにしていると、自分の意見に反対されることは自分自身への攻撃や否定されたように感じるのかな、と思います。日本の表だった議論の場は、議論によって問題を改善に導くよりも、そうした個々の目的の方が強いのかもしれませんね。
わたしも子どもの頃は自分の意見に異を唱えられると、自分を否認されたように感じていたように思います。でも大人になって、日々、現実の問題と向き合っていると、自分と正反対の意見であっても、現実の複雑さに別の角度から光を当てているだけであって、最終的には自分と同じ目的に向かっているように思われることは多いです。人はそれぞれ別の環境や視点から意見を発しているのに、同じであるはずがありませんよね。
たとえ同じ言葉で表現していたとしても。
わたしの20代の息子は、小学生の頃から大の議論好きなので、ちょっとした話題から数時間に渡る議論に発展することは日常茶飯事です。
たいていの場合、わたしと息子の意見は異なります。
そうしてしょっちゅう議論しあい、自分とは異なる意見との付き合い方に慣れてくると、自分の考えをより慎重に検討しなおしたり、意見をよりバランスがよく有効的なものに深めていくのに、反対意見ほど役立つものはないことを実感します。
また、話をしている最中に意見が異なるように思えても、相手の言葉と目を通して、長い期間をかけて物事を見直してみると、それは反対意見ではなくて、自分の意見の一部で、分析の仕方が甘かったり、情報の集め方が足りなかったりした部分だと気づきます。
日本の家庭は、以前のような上下関係がなくなりつつあるのだから、親子で議論を楽しむようにすると、会議などの場でも過敏に反応することがなくなるのかもしれません。

話し合いのマナーでは?

「反対するなら代案を出せ」
これ、私はよく使います。
でも、それは決して、
「高度な卓見を持っていないならば意見を言ってはならない」
という意味で使ってはいません。

反対、嫌だ、しか言わない。
ではどうしたいの?何が嫌なの?の問いには答えない。
そんな人がいて、話し合いは進みますか?

代案を出せなかったとしても、
「具体的にその提案のこんな点が嫌だ、心配だ、不安だ」とか、
「ぼんやりとだけれどこんなことがしたい、こうなりたい、こうあってほしい」とか、
そういったことを伝えるとか、、、
何か議論を先に進めるために協力はしてほしいものです。

まずはブログを読みましょう。

皆さんコメントを書いていますが、おとーちゃんのブログを読んだ上で、コメントしてはどうでしょうか?

おとーちゃんは
「反対、嫌だ、しか言わない。
ではどうしたいの?何が嫌なの?の問いには答えない。 」
そんな人がいると書いてますか?

一言も不平不満や否定や反対だけしかしない人を良しとは書いていません。

ただ、反対意見になるかもしれないけどそういう意見でも賛成意見でも出せて、話し合いが出来て、より良い形になると良いですね、ということではないでしょいか?

話し合いの場で力関係が影響したり、人間関係にヒビが入るのではなく、同じ目的目標などに向け、お互いの人権や意見や考えを尊重するのが大事だよねって話だと思います。

また、全員が賛同する結論なんて無理だと思いますし、おとーちゃんも全員賛成の結論にすべき、なるとは言ってませんよね。

そもそも、1億人日本人がいて同じ人が1人もいないんですから、多数なほど全員なんて無理な話ではないでしょうか?
政治で党がいくつもあり、それぞれ切磋琢磨をする中で、今回はこういう結論に至った、そういうのが理想じゃないのかなと思います。
(例えで政治を出したのは、そういうイメージという意味です)

〉それはたとえ感情レベルの意見であってもいいのです。
「私はそれはしたくない気持ちがするな・・・」といった気分レベルのことでも、それを押さえつけ続けると、人間はだんだんと抑圧が高まっておかしくなっていってしまいます。
対案など出さずとも、「嫌なものは嫌だ」「いいものはいい」と言う権利がすべての人にあるのです。


何度も記事を読み返したのですが、やはりここにひっかかってしまいます。
コメントで記事に意見を出されている方もこの部分が気になっているのではと思うのです。
感情レベルの意見でものを言われると、議論が進まないではないか、どうしたらいいの?と。
私の意見でも「えー?それは困るよ??大人としてどうなん??」と思ってしまいますf(^_^;
大阪都構想に反対だけしておいて、じゃあ問題点どうするよ?の話し合いには欠席...なんてオイオイって感じです。それには代案ぐらい考えてくれよと思っても当然かなと思ってます(笑)

余計なこと書いてしまいましたが。
おそらくはそれでも、議論が進まないという状況が生まれたとしても、意見を黙らせる権利は誰も持ち合わせていない...ってことが書かれている記事なのかな?という解釈です。
この記事はいい議論の仕方の記事ではなく、意見表明の権利つまり表現の自由についての記事なんですよねきっと。
誰も侵害してはならない。例えうまく表現できなくても、意見を言う権利は誰もが平等に持ち合わせているのだと。

だから、おとーちゃんの意見とは違うなぁという意見の表明をする権利も皆さん持ち合わせているので、コメントで反対のような考えを述べることも認められているのだと思います。
感情攻撃や人格攻撃でなければ...ですが。
反対に「おとーちゃんは正しいんだ!文句言うなら出ていけ!」なんていう権利もないんだと思います。(個人blogなので嫌なら見なければいいのにとは思いますけども)

皆さんのコメントの論点が少しずれているのかなと思ってコメントしてみました。
ずれてるのが私の方ならほんとすみません(笑)

「サッチャー首相の頃、八〇年代にはTINAと呼ばれる説得論法がありました。"There Is No Alternative"の略。訳すと「他に方法はない」ということ。「他に方法はあるか? 対案を出してみろ! 出せないだろう? ならば俺の方法に従え!」という論法の説得術。
 しかし、これは変な話です。
 医者に通っていてなかなか治らないとします。患者は文句を言います。「まだ痛いんですよ! それどころか、痛みがひどくなってます! 他の治療法はないんでしょうか?」と。
 それに対して医者が「他の治療法? どんな治療法があるか、案を出してみろ! 出せないだろう? なら黙って俺の治療法に従え!」と言ったら、どう思いますか?」

…という文章を小沢健二が書いているのを読んでいたので、おとーちゃんもそういう事を言っているのかなと思いました。

反対するなら対案を出せという言い分が正当なものとして成立するのは、ごく限られた状況でだけであって、基本的には相手を黙らせるだけのものになってしまいます。

初コメントです

絶賛子育て中で、おとーちゃんさんのブログに、とても助けられております。

ただ、、、今回はちょっと怖いなと思ったのでコメントします。
私は「反対するなら対案を出せ」という意見の”すべて”が「高度な卓見を持っていないならば意見を言ってはならない」ということだとは思いませんし、そんなに脅迫めいた発言とも思いません。
理由は他の方も述べられている内容とほぼ同じなので、割愛します。

私が特に気になったのは、「反対するなら対案を出せ」という意見について、「論法としてとても”お粗末”」、「とても”卑怯”」、「いい年をした大人が大変情けない」という強い言葉を使ってなじっている点です。
これこそ言論封殺ではないでしょうか?

ネットなどで影響力のある人、もしくは上司や指導者など権力を持った人がこういう強い言い方をするのは「怖い」ですし、言われた側が大人でも萎縮すると思います。

みなさんもうちょっと客観的に読んだほうがいいですよ

おとーちゃんの言っていることは、とてもシンプルで理解しにくいものではありませんよ。
でも、誤読している人が多いことに正直驚かされています。

とくに、「代案うんぬん」のところにとらわれてしまっている人は、タイトル名とこれの続きの記事も読んで、文脈のなかで論旨を理解する努力をしたほうがいいですよ。
反論している意見のほとんどが見当違いの方へ向いていることがわかるはずです。

ヒント
会議や議論のことは、このはなしの枕になっていて

>それをみなで話し合い、みぞを埋めていく作業こそが大切なのです。

ここまでで一旦おわっていること。

その後、「意見を表明できること」のはなしに変わり、その延長線上に「対案うんぬん」によって人の意見を封じる人のはなしがでていること

No title

なんだか、考えさせられる記事とコメントですね。

私は、今色々世間で起きている諸々の出来事から感じるこもごもと似たものを、今回のおとーちゃんさんの記事で感じました。
議論をする際に、反対されたら人格を否定された気になる…。これは本当に気をつけなきゃなと常に思っています。
これにハマると本当に議論にならないですから。

議論になっている対案にしても、対案があれば(そしてそれをお互いに聞く気があれば)もちろん有意義な議論ができて良いことだと思います。
でも逆の論法で、対案が無いから物を言うな、無責任と言われるならば、それは違うんじゃないかなあ…と最近、ここのブログではなくて、世の中の色々を見て思うことが多いので…。
対案が無くてもイヤだととりあえず表明する、その後で話し合いで理解を深め合ってお互いに解決を模索する、そう言うやりかたも有りだと思うのに、それすら「対案が無い」と封殺されるなら、それは暴挙でしょうと思います。私も。

皆さんは、最近の世情の流れで、そういう閉塞感を感じたことはありませんか?
私は大いに感じているので、だから今回のおとーちゃんさんの記事にはとても共感しました。

まあ、おとーちゃんさんの書かれた意図と、私の共感ポイントはズレてるかもしれませんが…。

とりとめもない感想ですいません。
更新いつも楽しみにしています!



No title

他の方はどうかわかりませんが、
私は別に文章のすべてを否定したくてあのコメントを書いたわけではないのですよ。

「代案うんぬんにとらわれている」だの、
「全体をとしておとーちゃんはそんなこと言ってない」だの、
仰る方がいらっしゃいますが、
そうですよ。
だって「代案うんぬん」のところが気になったからコメントを書いたんですもの。
(余談ですが…字を飾り付けたりできるんですね!初めて知りました・笑)
コメントの冒頭に「一部気になった個所があったのですが」としてから書き始めるべきでしたね。

>対案など出さずとも、「嫌なものは嫌だ」「いいものはいい」と言う権利がすべての人にあるのです。

>それはたとえ感情レベルの意見であってもいいのです。
「私はそれはしたくない気持ちがするな・・・」といった気分レベルのことでも・・・

ここがね、引っかかったのです。
前回のコメントでも書いた通りですが、

『代案を出せなかったとしても、
 「具体的にその提案のこんな点が嫌だ、心配だ、不安だ」とか、
 「ぼんやりとだけれどこんなことがしたい、こうなりたい、こうあってほしい」とか、
 そういったことを伝えるとか、、、
 何か議論を先に進めるために協力はしてほしい』

「私はそれはしたくない気持ちがするな・・・」
「嫌なものは嫌だ」
では、そう思った根拠は?
まさか根拠もないのに言ったわけではないのでしょう?
(それはただの議論の妨害行為でしょう?)
それを示してください。
そうじゃないと先に進めない。
対案だの代案だのは出せなくても、
せめてそれくらいは教えてよ。
それでこその「議論」ではないですか?

こちらももうキリがないので降りますね。
ケンカしたいとか思っているわけではないので。
おとーちゃん、ブログを汚してすみませんでした。
不適切であれば削除してください。

No title

初めてコメントさせていただきます。
おとーちゃんさんのブログを娘が生まれる前から参考にさせていただいていて、
お陰様で子どもを一人の感情や尊厳を持った人間として関われています。
1歳半でまだうまく伝えられないので、あれもこれもいやぁ〜〜という時もありますが、
じゃあどうしたいの!?は堪えつつ、私がわかる原因がなければ、なんか嫌なのね〜で泣いている口の中を虫歯がないか観察しながらなだめています(笑)


さて、コメント欄を拝見して、ちょっと視点をかえていただきたくてコメントさせていただきます。
おとーちゃんさん、私の受け取り方が違ったらごめんなさい。
それ違うと思う方もいると思いますがご容赦ください。

今回のこのシリーズvol.1、最近の世事を見て書かずにはいられなかったのではないでしょうか。
与党VS野党(多数決)、高校生のデモとそれに対しての芸能人の発言(最後の部分)、戦後70周年(全体主義)、、、、。
その視点から考えると、ちょっとひっかかってる方も見方が変わりますか??
おとーちゃんさんは意見や議論についての一般化もされてますけど、具体例を挙げなかっただけで、ニュースを見て感じた事を個人の意見としても書いているのかなーと思いました。
私も一読した後、おう、今回は随分はげしいですな、と思いました。
でもそれならそれだけの書く理由があるのでは、と思いました。


もやもやが晴れる一助になれば幸いです。
おとーちゃんさん、これからも更新楽しみにしています。

子どもの立場で

どきどき。
皆様の色々な意見、ちょっとドキドキしながら読んでます。読みごたえあり。

で、すみません、共働きの母さんの
>「私はそれはしたくない気持ちがするな・・・」
>「嫌なものは嫌だ」
>では、そう思った根拠は?
>まさか根拠もないのに言ったわけではないのでしょう?
(それはただの議論の妨害行為でしょう?)
>それを示してください。
>そうじゃないと先に進めない。
>対案だの代案だのは出せなくても、
>せめてそれくらいは教えてよ。
>それでこその「議論」ではないですか?

これは、ある程度対等な立場の者同士であれば確かにそうしないと議論は進まないというのはあります。
んが、弱者に対して、というか、子どもに対してこの対応ばかりでもまた、話は進まないこともあるのではと思います。

「今日、学校行きたくない気がする」
「嫌なものは嫌だ」
なんて子どもが言ったとして…
なんで、どうして、理由を教えてよ、理由が分からなければ何もできないじゃない。
なんて、確かにそうかもしれませんが…
その前にまず、その気持ちを受け止めたいです。
それから、子どもに寄り添いながら対応策を共に考えていきたい。

理由を必ず説明しなければ自分の気持ちを表現出来ないなんて…子どもは八方塞がりになってしまいます…
あれしたくないこれしたくないなどと訴えても、結局とどのつまりはお母さんに抱きしめてほしいだけだったとか、
自分でも理由が分かってないことは多々ありそうです。

はあ、なんて頭で考えている私もいざ、そんなことがあればどう対応できるかは?ですが、できるだけ子どもに寄り添える母でありたい…


議論について

議論や代案についてです。
今回の場合、仕事で必要な議論の場合の代案については、別に考えてもいいのではないかと思います。

いろいろな考え方や意見があります。
それと同じようにいろいろな人がいます。
自分の考えや気持ちを論理的にすぐに説明できる人もいれば、そういうことがとても苦手な人もいます。
苦手な人は、自分が今何を考えて何を求めているのか、説明できるようになるまで、多大な時間と労力を必要とする場合があります。
そのような人に、何で駄目なのか?どうしたいのか?どこがどのように嫌なのか?など追及することは、その人を追い詰める結果にもなり、そうすると、余計に何も言えなくなる、もしくは、言わなくなってしまうのではないでしょうか。
苦手な人に対しては、ただ言いなさいと言うだけでなく、その人が気持ちを表せるように、手助けすることも大切だと思います。

もちろん、論理的に議論が進むのはとてもいいことです。ただ、本当にいろいろな人がいます。
議論が得意な人、議論が不得意な人、いろいろな人が、自分の考えや気持ちを表に出せるようになることがいいのではないでしょうか。

No title

今回の記事、大変興味深く読ませていただきました。
私なりにかみくだくと、
議論の場で意見の対立する相手に
「私の意見はこうだ!聞け!
お前の意見は聞かない!」
をオブラートにくるんで言うのはやめましょう。
ということだと思います。
このオブラートの一つが
「対案を出せ!」
なのかもしれません。

言われてみれば仕事やプライベート、学校、ネットなどで私が経験してきた
会議や議論のほとんどって発表会であって
話し合いではありませんでした・・・。

実のところ、私は内心では保育士おとーちゃんのようなことをずーっと思ってきたのですが、
実際には
「私の意見はこうだ!聞け!
お前の意見は聞かない!」
という論法を使ってきてしまっていました。

それは、
例えば
意見の異なる人と話し合ってすり合わせたり着地点を探ろうとすると、
ドアチェーンを開けたら足をつっこんでまくしたてるしつこい勧誘のように
「それ、敵は一歩譲ってきたぞ!
全部踏みにじってやれ!」
とまくし立てて自分の意見だけを押し通そうとする人にこてんぱんにやっつけられたり、

私の意見に反対されて丁寧に話し合ってきたら、
別のことでも何度も噛み付かれたり噂を聞いて
結局私のことが嫌いで嫌がらせをしているだけだった
ということが判明してガッカリした経験から
(多くの人にとって大切なのは何を言ったかではなく誰が言ったかです)

人の話なんか聞いても損するだけだな、
私も意見の対立する相手には
「私の意見はこうだ!聞け!
お前の意見は聞かない!」
というしかないと学習したわけです。

相手が議論できる人ならちゃんと話し合いたいと思いますが、
そういう人ってなかなか居ませんね…。
(夫婦とか、親子でも無理)
誰と話し合っても私が私がと自分の意見を押し付けたいだけで
人の話など聞く気はないのです。
ええ、私も上記の理由からその一人です。
悪循環みたいですね。

日本人の甘えについて書いた著書がありました

依存=支配という方程式はやはり成り立つのかもしれません。
親が子供を支配する=親自身が子供に依存していると言い換えられるかもしれません。

価値観の違いを尊重するとは、甘えを脱却した思考の上に成り立つのではないかと思うのです。

世の中にはいろいろな考えの人がいる。そんな当たり前のことを真に理解していない人は多くいます。
自分が絶対正しい これを育児に持ち込み過干渉になるのではないかと。


どちらが正しいや、間違っているではなく欠点や違う意見も含めて相手を尊重するという心構えが大切であり、次世代に教育すべき事柄だと個人的には思っております。


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楽しく無理のない子育てを広めたいと2009年ブログ開設。多くの方の応援があって著作の出版や講演活動をするようになりました。 現在は、子育て講演や保育士セミナーの他、『たまひよ』や『AERA with Baby 』等の子育て雑誌の監修やコラム執筆。『ジョブデポ保育士』の監修や育児相談などをいたしております。

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