2017-03

論文の補足 - 2014.10.30 Thu

ちょっといま忙しくなってしまったのと、モチベーションが上がらないのとで
『ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.2』こちらの続きは落ち着いてから書きます。

論文について、いくつかご指摘や質問がありましたのでこちらは先にお答えしておきます。








まず、最初の小論文の方の「指導」と「援助」の語についてですが、たしかに読み返してみると「援助」に関する概念の定義というのがあいまいなまま書かれてしまっていますね。
短時間で勢いにまかせて書いてしまったのと、自分としては「援助」という概念はあまりに身近で自明なものだったので、ことさら定義を述べるというところを省いてしまったようです。文脈からはおおよその意味がくみ取れるかとは思いますが、たしかにこれでは論文としてはよくありませんね。
次回に活かします。ご指摘ありがとうございました。

一応、過去の記事でもこのあたりについては触れたものがあります。
この論文の大元になっている記事ですね。
『保育園の子供と幼稚園の子供  Vol.3  「視点」への意識』
『保育園の子供と幼稚園の子供  Vol.4   保育園における「指導から援助へ」』
このあたりです。

大まかな意味合いとしては、

「指導」というのは、目的ありきでアプローチする視点。
「援助」というのは、その人ありきでアプローチする視点。

ではないかと僕はイメージしてます。

ぽりさんのご指摘

>従来の「指導」の説明から入ると、そこに軸足を置いておられる方が読んだ場合には、何を言いたいのかがボケてしまう気がしました。

これはまさにその通りだと思います。
書いた段階ではその懸念は覚えつつも、勢いが勝ってしまってそこを担保するところまで論がまわりませんでした。
いまのところは読んで下さる方のご賢察を願うばかりです。
今後そのあたりにも手当てできるように考察を深めていきたいと思います。




次に、ノーマリゼーションとノーマルシーの定義についてですが。
ノーマルシーというのも別に僕の造語というわけではありません。

語としてはどちらも名詞であって、似た意味合いをもっているものですが、
ニュアンスを強調して訳した場合、

ノーマリゼーションは「正常化すること」
ノーマルシーは「正常なこと」
という当たりでしょうか。

なので語自体には明確な違いの意味合いというものがあるわけではありません、福祉論の中で概念を付託された語と考えてよいでしょう。

このノーマリゼーションとノーマルシーを概念化しその差異を指摘しているのは、ノーマリゼーションの提唱者であるバンク-ミケルセン本人です。

参考文献にあげた
『ノーマリゼーション(normalization)の原理』
N.E.バンク-ミケルセン 中園康夫 訳  四国学院大学 論集42

にその一節がありますので、ここに抜粋しておきます。


ノーマリゼーションは、精神遅滞者をいわゆるノーマルな人にすることを目的としているのではない。というのは、ひとつには”ノーマルシイ(normalcy)という言葉はどこにもつかっていないし、また精神遅滞者は、いわゆるノーマルでないいくつかの側面をもつグループとして定義される、ということを認めなければならない。目標とされているのは”ノーマルシイ(normalcy)”ではなく”ノーマリゼーション(normalization)”なのである。ノーマリゼーションとは精神遅滞者をその障害とともに(障害があっても)受容することであり、彼らにノーマルな生活条件を提供することである。すなわち、最大限に発達できるようにするという目的のために、障害者個人のニードに合わせた処遇、教育、訓練を含めて、他の市民に支えられているのと同じ条件を彼らに提供することを意味している。(p.146)



(ここでは、「精神遅滞者」と限定されて述べられていますが、これはバンク-ミケルセンが当時精神遅滞者の処遇に関する省庁の部局で働いていたために、この論文では対象として「精神遅滞者」を主眼に置いていたためです。
今日では障がいを持つ人に限らず「ノーマリゼーション」という考え方が子供から老人までをも広く対象とした、一種の人権概念としてまでの広がりをもって考えられているように、それは当時からバンク-ミケルセンの考えの中で一貫して変わっていないと言ってよいと思われます)


ここでバンク-ミケルセンは、”ノーマル”ということを、「そうでない人を健常化すること」と「通常の生活がおくれること」の差異を明確にしようと仕向けています。

その人の個性が他者(社会の構成員のマジョリティを指す他者)と同じでなくてもそれを受け入れましょうよ、というところから出発しているわけですね。
しかし、人々はマジョリティと同じでない人に対しては、差別化、区別化をはかってしまいます。ノーマルになってマジョリティと同じになってから、こちらの社会に入ってきて下さいねという見方をついついしてしまうのです。

だからこそ、ノーマリゼーションという考え方は、「ノーマルにすること」と違うものであるということを明確にして理解されなければならないことなのです。


saraさんのおっしゃるように「ノーマルシー」というのは、あまり馴染みがなく現在はわかりにくい概念です。そして広く知られていません。
だからこそ、僕も今回のようにノーマリゼーションの正しい認識というものを述べなくてはならないと考えたわけです。
現場で関わる人がこのことを適切に理解したとすれば、すぐ次の日からでも対応を考えるヒントになってくれるものではないかと思います。



>日本語ウィキに、ノーマリゼーションはわかりにくいので、等生化 としたらという提案がある、と書かれてますが、

この”ノーマリゼーション”という概念がおおやけに世に出たのは、デンマークの「1959年法」と呼ばれる、福祉政策に関する法律の中でです。

この法律を作るに当たって、その名称についてもさまざまな議論が重ねられました。

その中で、ヒューマニゼーション(humanization)、ヒューマン・リレーション(human relation)、イクォーライゼーション(equalization)なども候補に挙がります。

「等生化」というのは、ここにある、イクォーライゼーション(equalization)が近いのだと思われます。
確かに、バンク-ミケルセン自身「ノーマリゼーションとはイクォーライゼーションである」と述べています。
しかし、それらも勘案した上で「ノーマリゼーション」という語を選定しています。これは、バンク-ミケルセンひとりの考えだけでなく、当時の障がいを持つ人々の「親の会」の意見も踏まえてのことです。

僕が感じるに、「等しい」ということは一要素ではあるけれども、それだけではこの概念のすべてを表すには足りないからではないでしょうか。


また例えば、「等しい」ということをsaraさんがノーマリゼーションの間違った理解の仕方のところで引用した

>b) 人を社会や学校に支援なしで放出することをノーマリゼーションは擁護する

の意味合いで解釈してしまう人なども無いとは言えないとも考えられます。

また、「等しくする」ということは、前提として差異があるということを踏まえて出てくる概念でもありますので、そこもこの問題の全体像を考える際にはふさわしくないとも思われます。


現代的な感覚では「等生化」ということでも無理なく理解はできるかもしれませんが、かつての福祉政策や医療がどのようであったか、社会的的にどのように扱われていたかといった歴史的な経緯なども踏まえて考えると、やはり「等生化」という語では不十分ではないかと僕は感じます。


バンク-ミケルセンがノーマリゼーションの考え方の中でとくに重要であるとしているのが「連帯」ということです。
人々が社会の中で互いにコミットしていくことが必要不可欠なのであって、単に扱いが等しくなってだけではこの問題は終わらないことなのだと思います。



なにか参考になる図書があればとのご質問がありました。

参考文献にあげた
『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク‐ミケルセン―その生涯と思想』

これは読みやすく、ノーマリゼーションの原点を理解するのにとてもよいものでした。
バンク-ミケルセンがガンで余命幾ばくもないことを知りながら最後に尽力したのが、日本人に向けてノーマリゼーションを伝えることであったということなどこの本を読まなければ知らなかったことでしょう。書いているのは大学の教授ですが学問分野に限定せず、広くノーマリゼーションを伝えようとしている良書だと思います。


あと、福祉関係の本というのは山ほどありますので、僕が挙げるまでも無いかと思います。
なので、ちょっと福祉やノーマリゼーションそのものではないのですが、

『北欧 考える旅―福祉・教育・障害者・人生   著 薗部 英夫 』

これなどは本当に考えさせてくれる本です。
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● COMMENT ●

多数派

お父ちゃんさん、こんばんは
連投ですいません。
自閉症の方と接している時などによく思ったのですが、もし健常者と呼ばれる人と自閉症の人との比率が変わることがあったなら、自閉症の方が抱えてしまいがちな生きにくさは、健常者と呼ばれる人が抱えることになるんだろうな、と。

参考文献ありがとうございます。
読んでみたいと思います。

ありがとうございました

お忙しいのにご回答ありがとうございました。勉強になりました。
「日本の保育、福祉研究では、ノーマリゼーション、ノーマルシーが論文などで使われているのでしょうか。」の質問の意味は、ノーマリゼーションとノーマルシーが対比概念として使われるのでしょうか、という意味でした。ノーマリゼーションが専門用語として使われているは知っていたのですが、ノーマルシーは特別な意味のある専門用語なのだろうかと思ったからです。

今回次のような説明をいただきました。
「語自体には明確な違いの意味合いというものがあるわけではありません、福祉論の中で概念を付託された語と考えてよいでしょう。このノーマリゼーションとノーマルシーを概念化しその差異を指摘しているのは、ノーマリゼーションの提唱者であるバンク-ミケルセン本人です。」そしてその一節を引用していただきました。

今の解釈としましては、ノーマルシーはミケルセンという人が使ったが、特定の定義を持った専門用語化はしていないし、その方向でもないというものです。引用の一節は文脈の中での一般説明で使われた、(著者はそうでもなかったとしても)と今は理解されているのではないでしょうか。概念を付託された語として普及してはいない、と思います。ミケルセンはデンマーク人で英語母国語人でなさそうですし、Normalcyはnormalityとの違いもない単語であり、normalityの方が普通の単語であることもあり、英語圏で定着することはなさそうな気がします。

もともとおとうちゃんさんも、ノーマリゼーションを詳しく説明するために、文脈の中でノーマルシーを使っただけかもしれませんが、カタカナ語をぽんと出すと、インパクトがあり、特別な意味があるとの印象を与えるものですので、定着したもの、もしくはぜひ定着させたいものだけを使った方がよいと思っております。

こだわりますねえ、って感じですよね。しかし私には言葉の影響はすごく大きなものだと思えるので、コメントいたしました。意味不明だったら無視してください。
今後も子供たちの幸せのためにご活躍くださいますことを祈念いたします。

No title

お忙しい中、記事をありがとうございました。

私自身が、このブログをずっと読んでいるので、おとーちゃんさんの言葉遣いに慣れており、第三者的視点での読み方というものに自信がないため、書いたものの、余計な事を書いたかなと、ちょっとドキドキしておりました。

何かお役に立てるようなことが書けていたら幸いです。

私自身が、指導と支援をうまく捉えられずに子育てが迷走していたので、おとーちゃんさんの考え方のエッセンスが、違う考え方の方々にも抵抗なく生かされて、子育て支援の色々な施策が良い方へ向かうことを願ってやみません。
おとーちゃんさんの気持ちが、色んな方に通じますように、これからも応援しています。

今回は丁寧なレスをありがとうございました。

ママがやって!が耐えられない

何でも人のせいにしたり ママがやればいい 先生は何も教えてくれない と言ったりして、困っています。

たとえば今朝、リビングにほったらかしにしていたコ ラショの目覚まし時計を弟が触り、音がなりました。 息子(以下兄と書きます)は激怒!!触らないで!!マ マ、◯◯(以下弟と書きます)が勝手に触る!悪いよ ねー!!と言ってきました。

うん、そうだね、触らないでって前に言ってたのに 触ったのはいけないねぇ。と答えました。でも床に起 きっぱなしだと、ここはみんなの場所だし置きっぱな しにしてあったのも、お母さんはダメと思うな。と言 いました。

すると、ママと弟が触らなければいいでしょ!!さわ る方がわるい!と。

(我が家には息子たち専用の大きい引き出しが個人に ひとつずつあり、そこは勝手に誰もさわらない約束で す。パパのものはパパの部屋に、ママのものはママの 棚があります。その他は共有スペースと話してありま す)その話を再びしても、床に置いてるのを触らなけ ればいいでしょうと言うのです。

でもお母さんはお掃除するとき床のものはいつも除け るよ?だから触るよ。 すると、ダメなの!触らないで! それなら、自分の場所に片付ける、寝室で使うのだか ら寝室の棚におく、そういう方法があると思うけど な??

でもさわる方が悪いから、床においとく! いやでも掃除の時は除けさせてもらうよ? そこだけ掃除しなけりゃいいじゃない そんなぁ……みんなのも場所にものをおいてるのは兄 なのに、ママが掃除の時当たらないように気を付けて 掃除しなきゃいけないの??そこまでするのは無理だ わ

こんなやりとりでした。 結局泣きそうになりながら、自分の引き出しはいっぱ いなので、引き出しの上に置いていました。

こういうこと、頻繁にあるんです。反抗期だとした ら、私はどうするとよかったんでしょう??

パジャマも風呂入る前に持っていこうと言っても、マ マが持っていけばいいじゃない。物が落ちても、ママ が拾えばいいじゃない、幼稚園の荷物も車通園です が、ママが持てばいいじゃない、テレビがつけれな い、ママがつけてよ!お菓子の袋も開けれない、ママ があけてよ!!やり方を教えると、だって開けれない から!!あーーー!!!もー!!とわざと怒って、ゴ ネて見せます。明らかにわざとです。

まず咄嗟に浮かぶのが

「ねーママがなんとかして!!」なんです。

もっと幼い頃から、ちょっと出来ないことがある と、ママーママーと呼ぶ子でした。やってごらん? きっとできるよ!ほら、出来た!とやりたいところ でしたが、毎回毎回いーやーママがやっ てーーー!!でした。赤ちゃんがえりの頃でした。 なので聞き入れていました。

幼稚園の上履きも、わざわざ入れ物から出して袋と 別々にして持ち帰り、入れといたら?と言っても聞 かず、結局車から降りるときにバラバラーと落ち て、あーー!もーー!!と一人で怒っているので す。

でも、それで入れなきゃこうなるんだなーと学習し てくれたらいいのですが、これ、何度もやっている んです。

上履きを入れなかったら、持ちにくいな。だから入 れとこう。とはならないんです。

自分の所有物は自分でもたなきゃいけない、という 意識、自分が困るからなんとかしなきゃ、とか、な んだかこう自分ではやりたくない!ママがやればい いだろう!みたいな感じが見えかくれして、非常に 腹立たしい態度をとるのです。

いやいや、あなたのことでしょう。 きっとできるよ、がんばってごらん? こんなときはこんな方法があるよ?どっちにしよう か?などなど、色々声をかけてはいますが、まずは じめに即!「ママどーすんの?!」です。

どうしたらいいんでしょうか。

はじめまして。

はじめまして。今日初めてこのブログを読ませていただきました。
どこで質問すればいいのかわからなかったので、こちらのコメントに書かせていただいてます。違ったらすみません。また、過去の記事を全て読めてないので、既に書かれていたらお手数ですが、題を教えていただきたいです。
うちの子は1歳4ヶ月の男児です。この1、2ヶ月ほど奇声がひどく、悩んでます。何か要求している時や、主張している時、反抗する時、稀に楽しい時にも、きゃーっという声が出ます。今までの私の関わり方で、この声を出さないとお母さんはこっちを向かないと思ってしまったんでしょうか?そうだとしたら、まだ関係を回復させることはできますか?
いきなりこんな質問してしまって本当にごめんなさい。
回答いただければ嬉しいです。

ご家庭、お仕事、ブログ等お忙しいと思います。お身体お大事に、がんばってください。

お礼のコメントをしたのですが、間違えて記事「小論文 保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義」の方にコメントしてしまいました。ややこしくて申し訳ありません。

ちょっと閑談

お父ちゃんさん、こんばんは
なんかこの記事関連に対して色々知ったかみたいなコメントすいません。
ちょっと昔ない頭で福祉について必死になっちゃった時期があり、色々と思い出してしまったように思います(笑)
自然体が一番なんだ、と思い出したのでどうでもいいだろうな〜と思いましたがコメントさせて頂きました。

早くお父ちゃんさんの本出ないですかね。
今一番読んでもらいたいのは夫です、夫!(笑)

気温差が激しい毎日ですね。
どうぞくれぐれもご自愛ください。

障がい者だけでなく…

「するべき」「させるべき」っていう、大人の価値観全面に出した子供との関わり方って、どうしても多くなってしまいますよね…
 
でも、そういった子供の気持ちに寄り添わない関わりばかりになると…その子は子供らしい、満たされた子供時代を過ごせないことになりますよね。
いつもいつも追い立てられて自分らしく子供らしく過ごす時があまりなかった子供達は、渇望感のある大人になるでしょう。
 
中毒?と思える程ディズニーリゾートにはまってる人や一部のおたく道に邁進してる人や仮装にはまってる人達などを見ると…「子供時代満たされなかった思いを今満たそうとしているのかも?」
と想像してしまいます。
(それはそれで楽しそうですが)
 
極端になるかもしれませんが、その満たされなさからくる最たるものが、様々な悲しい犯罪ですよね…。
 
もし、この犯人の子供時代が満たされたものであったなら、このような罪は犯しただろうか…?
と思いを巡らせてしまいます…。
 
どうかどうか、子供達が明るい未来を歩けますようにと願わずにはいられません。
 
大変とは思いますが、間違いなくその一助になっていると思われるおとうちゃんさんには、また元気が出たら頑張ってほしいと思っております。
(大きなお世話?)
 
よろしくお願いします!
ありがとうございます。

保育園で後追いする子供

いつも興味深く拝見させていただいてます。
子育てをしながら資格を取り、保育園で勤め始めて3年目の保育士です。
0才児を担任しているのですが、その中のひとりの子供の激しい後追いに悩んでおり、お時間のあるときで構いませんので、相談に乗っていただければと思います。

当園の0才児クラスは、9人の子供を3人の保育士で見ています。
私以外は、ベテランの先生です。
担当制保育を導入しており、子供3対保育士1で、ひとりの保育士が、担当する子供の食事や排泄などの基本的なお世話を全て行います。

私の担当している子供のひとりが、6ヶ月で入園し、間もなく1才1ヶ月になるA君です。
入園した当初からよく泣く子で、寝返りなどもまだしていなかったので、一日の大半をおんぶや抱っこで過ごす日々でした。
よい関わりを心がけて、笑顔で声かけをしたり、遊びを提供したりしても、あまり反応はなく、抱っこを求めるばかり。
9ヶ月になって、寝返りやずりばいができるようになると、お部屋の探索などもし始め、情緒も少し落ち着いてはきたのですが、同時に後追いが始まりました。
機嫌よく遊んでいても、保育者の動きに過敏に反応し、泣きながら後を追ってきます。
他の子供のお世話をする間も、A君に目を向け、「待っててね」など声をかけるのですが、泣くばかり。
私がいなくても、他の担任が一緒に過ごしてくれるときは落ち着くのですが、誰も手が離せず、構ってやれないときは泣きっぱなしです。
あまりに手がかかるので、私の担当をA君とBちゃんのふたりにしてもらいましたが、ほぼA君につきっきりの状態です。

また、1才になると同時に延長保育が始まってからは、日中の保育時間も、今まで以上に不安定に。
延長保育時間は、お迎えの時間まで、担当のおばあちゃん先生に、ひたすらおんぶに抱っこで過ごしているそうです。
「そのうち慣れるだろう」ともう1ヶ月経ちますが、まだまだおんぶ紐がはずれそうにないようです。


私としては、抱っこばかりの子守り保育にならないよう、そばにいて、一緒に笑い合う関わりを増やしたいと思うのですが、うまくいきません。
くすぐりなどにはよい反応を示してくれるので、機嫌のよい時間には、1対1でくすぐりやふれあい遊びを楽しんでいます。
睡眠などの生活リズムも、A君のペースに合わせて、極力無理のないようにしているのですが、ごはんも嫌がって全て口から出されたりすると、悲しくなります。
「成長すれば落ち着いてくるだろう」「そのうち園での生活にも慣れるだろう」と思い続けてもう半年以上。
何が足りないのだろう…
何がいけないのだろう…
毎日悩んでいます。

ちなみに、お母さんは、とても大らかな方で、一人っ子のA君を溺愛していますが、過保護、過干渉という雰囲気ではない感じです。
お家では、泣いたらおんぶで用事等を済ませているとのこと。
ギャン泣きのA君に、かわいいなぁと目を細めるような方なので、それほど子育てにご苦労は感じておられないようです。

我が子にもこんなに後追いされたことがなく、まして仕事なので、やるべきことをやるべき時間内に済ませなければいけないという焦りもあり、困っています…。
何かアドバイスいただけましたら幸いです。

なまこさん

どういうわけでそういう姿になってしまっているのか、僕からはしかとはわからないけれども、現象としては「素直な甘えが出せない・わからない」という状況になっているようですね。


よくあるところで考えると、大人の方のメリハリのなさや「弱い大人」としての姿勢・関わり、子供を尊重しようとするあまり理屈を示すことで行動をコントロールしてきた結果や、子供にわかりやすい伝わりやすいかたちでの受容がうまくできていなかったため、などが多くみられます。


例えばですが、もっと大人が自分の感情を示していいと思います。

>ママがやって!が耐えられない

これまでの経緯の中で、大人が不快に感じるような出し方で自我を出してきたときにそれを大人の方が「不快に感じつつも頑張って」受けてきてしまっていると、子供の方からはその出し方で出すことが許容されているということになってしまいます。

でも、実際のところは大人はそれを「我慢」しているだけで許容しているわけではありません。
なので、大人の方の表情や感情は子供にとって好ましいものとはなっていません。
子供はそれを感じます。

その結果なにが起こるかというと、「行動は許容されているのに、気持ちの上では否定されている」という矛盾です。

これは大人の対応が、「子供に対しても大人自分自身対しても嘘をついている」ということです。


僕はこういう場合は、最初から大人が正直な感情を示して(不快を示す)そのようなネガティブな出し方を許容しない方がよいと考えています。


ネガティブな出し方を一貫してきっぱり否定して、その上でよい出し方(素直な甘え方)を子供に示し、それを子供自身に模索させ、そこから大人も子供も両者が好ましいかたちでコミュニケーションをとれるようにしていく積み重ねをするほうがよいでしょう。


しかし、大人が一生懸命に「子供の姿をなんでも受け入れよう」と頑張ってしまうと、子供はネガティブな行動を唯一の取るべき行動として学習してしまって、それやそのかたちの類型の出し方を繰り返すことになってしまいます。


大人はその子供の難しい姿をコントロールするために、理屈で納得させようとしたりしてしまいますが、それは対症療法にすぎないので、うまくいかず余計な反発を生むだけのことも多いですし、うまくいったとしても根本の原因ではないので、一時的なものとしかならないということも多いです。


人が不快になるような屁理屈であるならば、それを大人が真っ正直にとりあったりせず、むしろ感情を示して「そんなの嫌だから嫌なんだー」と大人の強権で対応してしまったほうがいいこともあると思います。
基礎的なところで受容がなされていたり、信頼関係ができているのならば、それで子供が悪い方へどうこうなるということはまずありません。

むしろ、人を不快にするような関わり方を身につけさせてしまうよりも、その方が親切な関わりであるとも言えます。


コメントにあることから感じるに、過保護もしくは過干渉の親子関係ができてしまっており、その上に理屈で子供に「あるべき姿」を伝えようとする傾向が強いために、子供が自分自身の自発的な行動を発現することを躊躇するという軽い萎縮傾向があるのではないかと思います。

その感情面(自分のあるべき姿というものに強い期待をかけられているというある種のプレッシャー、とるべき行動に判断をされるので自信を持って出せないという混乱など)のわだかまりが、人を不快にするような出し方として表れてしまっているような印象を受けます。

そのあたりに注意することでいまの姿を変える道筋というのがみえてくるのではないでしょうか。

かなさん

>今までの私の関わり方で、この声を出さないとお母さんはこっちを向かないと思ってしまったんでしょうか?

この点になにか思い当たることでもあるのでしょうか?

例えば放置が長かったとか、ご自身が産後鬱などになっていたなどなど。
僕からはそのあたりがわからないと何とも言えません。


そういったものも特になくて、急にでてきたということであるならば、それは体調などの医療的な面の問題かもしれません、そういうものでも小児科のお医者さんで相談にのってもらえますので一度聞いてみるといいかもしれませんよ。

No title

おはようございます。

こちらで紹介されていた以下の本を先日読んでみました。

>『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク‐ミケルセン―その生涯と思想』

>”ノーマル”ということを、「そうでない人を健常化すること」と「通常の生活がおくれること」の差異を明確に
おとーちゃんがおっしゃっていたこと、本を読んでやっと理解出来ました。

本の中で何度となく「ノーマリゼーションが『正しく』理解されることを期待する」という趣旨の文言が出てきますが、
私にはなかなか難しかったです。本を読んで良かったです。

次女がどうやら左利きのようなので、例としてぼんやり考えていたのですが、

右利きの子と左利きの子がいたとして、(左利きは障害ではありませんが
マジョリティに対するマイノリティという意味で)

「ハサミを使って工作しましょう」という課題があった時に
目指すべきノーマルな状態は「自分なりの作品を作る」ことだと考えれば
左利きの子の個性を活かすために「左利き用のハサミを使わせる」という
「援助」ができそうですが、
そこを「皆(マジョリティ)と同じ条件で作品を作ること」と捉えてしまうと
「左利きの子に右利き用のハサミを使えるようにさせる」
という「指導」になってしまうのかなと思いました。

左利きの子は決して切れない右利き用のハサミを左手に持って
「何故出来ないのか」と責められたり、
本来の自分でない右手にハサミを持って、自分らしさが発揮できない作品を作ることになっているというのが
現状の様々なハンディを持つ子への「指導」あるいは「正しく理解されていないノーマリゼーション」なのかなと理解しました。

何を「ノーマルな状態」である、と考えるのかはその人・その組織・その集団の個性(あるいは偏見)が表れると思うので、専門家の啓蒙、
あるいは一人ひとりが「知ろうとすること」がやはり大前提となりそうですね。

そしてそれがとてつもなく大変なので、今回おとーちゃんがかなり
消耗されてしまったのですね。
改めて、お疲れ様でしたとお伝えしたいです。


奇声をあげる男児の母です。

コメントに返信していただき、ありがとうございました。

産後鬱はなかったのですが、育児ノイローゼに近いものはあったかもしれません。
また、一歳くらいまでは泣いたら抱き上げたり、行けなくても声かけしたりはしてましたが、歩けるようになり自己主張するようになってからは、「ちょっと待って」を多用していました。
指摘された通り、私の中でこれらの行動がよくなかったのではとひっかかっています。
最近は、「それでは何をしたいのかわからないから、したいことがあるなら呼んで?」と言うと、「ばっば」と呼んでくれ、その後ちょうだいや抱っこなど身振りをしてくれるようになり、落ち着きます。でも、怒られた時など、感情をあらわにする時などはまだ奇声がでてきます。

育児初心者ながら、がんばって子供と向きあっていきたいです。
お忙しい中、お時間とっていただき、本当にありがとうございました。

ちぃさん

実際のところを見ていないので正確なことは言えません。

アプローチの方向はいろいろあります。


・遊べる子にする
泣きの長い子、後追いの多い子は遊ぶ力が育っていない場合が多いです。
遊びのてこ入れをすることや、好きな遊びを作ってあげることなどで、短い時間でも遊びに気持ちが向けるようにしていくことが、長期的に大切になります。


・できるときに思いっきり関わる
メリハリですね。
「あー、いま忙しいのにな-」などとイヤイヤ相手をしたりすることのないようにして、できるときは大人の方も気持ちよく、できないときはドライにすっぱりと「いまは〇〇しているからできないよ」とメリハリを持って対応する。


・おんぶ紐対応はよくよく考えて使う

>延長保育時間は、お迎えの時間まで、担当のおばあちゃん先生に、ひたすらおんぶに抱っこで過ごしているそうです。「そのうち慣れるだろう」ともう1ヶ月経ちますが、まだまだおんぶ紐がはずれそうにないようです。

保育の考え方や、個々の発達、状況いろいろありますから一概には言えませんが、泣きが強いからとおんぶ紐で対応してしまうことは、家庭と違って保育の場ではその子のためにならないこともあります。

「泣けばおんぶしてもらえる」という経験を積み重ねてしまうことで、返ってその子供が現状をつらいと感じることを多く、また長期にわたって引き延ばしてしまうからです。
また、依存が強まり様々な面での成長を阻害する可能性があります。

おんぶ紐を多用していたクラスがあとあと大変なクラスになってしまったケースなどを実際に見ています。
遅番時の人員配置や噛みつきがでていたりなどでやむを得ない場合もあるかもしれませんが、できうるならば遅番時も少しずつでも、依存ではなく遊びに気持ちを向けていくような対応が望ましいでしょう。


・その子にも考えさせる
大人の意識が「かわいそうだから」になってしまえば、子供の依存が余計に強まり返ってその子のためになりません。
どうどうと大人の事情を伝えたりして、子供に考えさせることをしむけてもいいでしょう。

例えば、
食事の時間に「いまは泣かないで食べる時間だよ」「自分で泣き止んでごらん」

「はい、いまは遊びの時間だからもう泣かないよ」

「あなたが泣いてばかりだと周りの子も不安になっちゃうから、もう泣くのはおしまいにしてください」

など。


「いま、私はどこそこで〇〇をしにいくから、その後戻ってくるよ。それまで待っててね」
→「待っててくれてありがとう。ちゃんと待てたね」

これは子供に見通しを持たせて考えさせるということですね。


基本的に、家庭での受容がなされているということならば、問題はないはずです。

また保育士も基本姿勢に受容があり、それがなされているのならば少々厳しく思える対応をしても大丈夫です。
その大人の毅然とした態度が、結果的には子供の心の成長をうながし、泣かずに安心して過ごせる習慣をつけてくれます。

泣きや後追いも、その子の個性だと思って、超然と構えてしまうことがあってもいいでしょう。

かといって後追いを受けたりすることが悪いわけではありません。
しかし、そのときでも依存しきりにせず、自立への道筋は必ず残しておいてあげる必要があります。

それができればあとは時間が助けてくれるでしょう。

さやさん

その左利きの例えは、とても適切でわかりやすいと思います。
僕も説明するときは使わせてもらいます。

日本人は特に、「同質化」を好む文化を持っているようですので、とりわけ「ノーマルシー」が大好きです。

善良な人たちが、良心から、ノーマルシーを獲得させようと一生懸命働きかけ、そしてそのクライアントはどれだけ努力しても「同質」にはなれないことをそのたびに無理やり目の当たりにさせられます。
しかし、善良なその人たちは「正しい」ことをしているという地点に立っているので、そのクライアントの苦しみには気づくことがありません。
なんともやるせない現実です。

その人の能力を同質にするのではなくて、その人が他の人々と同質の実感を得て日々過ごすことができるならば、それで問題はクリアされるのであって、その環境を整えることが本当の仕事であるという、実は簡単なことに気がついてくれるよう願うばかりです。

No title

おはようございます。

思いがけず返信いただきありがとうございます。

>善良な人たちが、良心から、ノーマルシーを獲得させようと一生懸命働きかけ

先日図書館で借りた本が、まさにこんな感じで、何とも重たい気分になりました。
(基本的に娘に選ばせていますが、字が読めないので「絵」で選んだようです)

身体的ハンディを持つ子が主人公で、
クラスの皆と同じ目標を目指して頑張るというストーリー。

多分「努力って素晴らしい」と伝えたいのでしょうが、

「仲間に入れて欲しければ、死に物狂いで努力して
皆と「同じ」になれ」
と言っているようでした。

夫が珍しく「これはイジメだ・・・」と嫌悪感を露わにして
いたのが印象的でした。


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楽しく無理のない子育てを広めたいと2009年ブログ開設。多くの方の応援があって著作の出版や講演活動をするようになりました。 現在は、子育て講演や保育士セミナーの他、『たまひよ』や『AERA with Baby 』等の子育て雑誌の監修やコラム執筆。『ジョブデポ保育士』の監修や育児相談などをいたしております。

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