失われた感覚 vol.2 - 2016.07.30 Sat
「昔はよかった式」で考える人は、だから「昔のように三世代同居すればいいのだ」といいます。
こちらに詳しいですが、安倍内閣が出した『少子化対策(笑)』のひとつにまさにそんなことがありましたね。
こういった、「過去は自然と得られたものが現在は得られない」この状態がスタートラインなのですね。三世代同居が問題なくできる人で、それで解決する人ならばそれでもいいでしょう。
(でも、すでに祖父母の世代でもこの”感覚”は失われている人もすくなくありませんので、必ずしもそれがこの問題の解決策にはならないでしょう。)
しかし、そんな人は様々な理由から現代にはたいしていないはずです。だから問題になっているのですから。
水の流れは逆にはならないのです。時代を戻すようなことを考えても、それは本当に問題を見据えた施策ではありません。
「ないのだから、身につけるところから」これが現代の子育て支援のスタートラインです。
実のところ、「子供を可愛がるその仕方」、それ自体がわからない人も少なくないのです。
それが当たり前にできてしまう人にとってはなんの問題もないことだし、そういう人からはその人の問題が見えないことでしょう。
でも、現代は子育ての感覚が断絶してしまっているところから出発しているので、そんな基礎的なことの仕方がわからない、知らない、その必要性がわからない、その理解に飛躍がある、などなどいろいろな人がいます。
例えばこんな人がいました。
その人は子供が0歳の時から、子供に話しかけません。笑いかけもしません。
どうしてなのか聞くと、「赤ちゃんは言葉がわからないので、話したり笑ったりしても無駄かと思っていました」と言うのです。
その人にとってそれは本心でした。
そういうものだと思っていたのですね。
比較的多くの人は、「赤ちゃんであっても笑いかけたり話しかけたりしてあげることは大切なんだろう」ということを、自然にとか(実は自然じゃなくてそういう行動を見た経験がある)、子育ての本などでなんとなくでも身につけています。
その人もそういう文章を保健所がくれる冊子などで読んではいたのだけど、その人の感覚からはそれはスルーされていました。
この人自身、子供のことを大事にしていないわけではないので、他の人と同様に大切に思っているのですが、その人がその人の人生の中でそれまで身につけてきたものと、子育てで必要なものが噛み合っていない状態から子育てが始まっているのでした。
これは極端な例ですが、こういうことが程度の差こそあれ多くの人にある状態からいまの子育ては始まっています。
(ちなみにですが、こういった人がこのまま独力で子育てを続けていくとどうなるかというと。
ただ、赤ちゃんを可愛がったり、あやしたり、くすぐって笑顔を見ては楽しんだりする代わりに、自分の理解の及ぶことを代わりにその空いたスペースにいれていくケースがあります。
例えばその人は、子供を「可愛がる」という概念やその仕方は理解していませんが、子供には勉強が大事という知識は持っています。
その人自身、かわいがられるよりも、勉強を頑張らされる生育歴を持っていたりすればなおさらです。
すると、子育てでなにかする必要があるということは思うので、可愛がる代わりにそこに勉強を入れていきます。
それで結果的に超早期教育を始めたりします。
子育てはバランスなので、それでもさして問題なくいく場合もありますが、それだと子育てが難しくなるリスクははらんでいると言えるでしょう。)
さて、そういうわけですから、現代では家庭支援、子育て支援が重要になっています。
地域の結びつきが弱くなり、ご近所さんづきあいといったものが減っている時代でもあるので、この問題は自助努力では解決しない面があります。
つまり、なんらかの社会的サポートが必要になるわけですね。
それはいろいろな形があることでしょう。
育児支援センターなどの公的なものもあれば、NPOがそういったスペースを作ったりしているところもいまは増えていますね。
または、森のようちえんや共同保育的なところで、親も一緒に身につけるといったケースもでてきています。
そのように、各家庭内、地域のつながりではできなくなってしまっている状況なのだから、それを別の形で補っていけばいいわけですね。
また、それに本腰を入れなければ、子育ては送れなくなっている時代にすでにきていると言えるのです。
だから僕は思うのだけど、”子育てひろば”的なものが現代は重要なのです。
ふらっと行けて、そこで小うるさいこと言わずに、子供を遊ばせたり、子供同士での関わりを経験させたり、また子育ての悩みやグチを言えたり、ときには専門家のアドバイスが受けられたり……。
いま、ただ公園なんかに行っても、相手の親がどんな人かわからないから子供の行動などを過剰に配慮しなければならなかったりすることもありますよね。
そういった懸念なしに過ごせる場があったらいい、というかなければならなくなっているのだと思います。
しかし、こういうのって高い利用料をとれるものでもないし、またそうしたら意味がないし、でも、場所の確保など(とくに通年ともなれば)経費はそれなりに掛かってしまうので、公的な補助みたいなものがないと厳しいのですよね。
僕もそういう場を主催してみたいと思うのだけど、NPOでやっているところとかってどういう仕組みでなりたっているのでしょうね?
僕が知っている限りだと、人件費に関してはほぼボランティアみたいな状態のところが多いのですよね。
でもそれだと、どうしたって世の中に必要なだけの場所の確保ってできないのですよね。
今度機会があったらいろいろと調べてみようかと思います。
| 2016-07-30 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
津久井やまゆり園の事件を受けて - 2016.07.29 Fri
それというのも、遅ればせながら相模原市津久井やまゆり園の事件の報に触れたからです。
このところ、文章を書く仕事に集中していたので外部からの情報を入れずに没入していました。
そのため一段落つき、昨日のブログの記事を書き終えたあとで、このニュースを知りました。
まずはこのような凶行で命を落とされた方のご冥福をお祈りします。
また被害に合われた方の心身のご回復が訪れますことを心より願います。
このような大量の死傷者を出したという事件の凄惨さもさることながら、「とうとう来るものが来たか」という思いを強く感じます。
いまアメリカでは、警察官による相次ぐ黒人殺害の事件が社会を揺るがせています。
片やドナルド・トランプ大統領候補者は、人種差別的な発言、アピールを繰り返し白人優越主義的な支持層を拡大しています。
このふたつの事象はまったく無関係と言えるでしょうか?
僕にはこのことが無関係とは思えません。
そういった差別的な雰囲気が社会に蔓延しつつあることが、些細なことや疑わしいというだけで黒人を射殺・発砲する事件への背景にあることが感じられます。
そして日本ではこの度の凶行が行われました。
かなり前から、ネット上では人種差別的発言や、障がい者や生活保護受給者などの社会的弱者を攻撃するような言説が飛び交っていました。
それらだけならば、自己のさまざまな理由からくる怒りなどを、なにかにかこつけて発散させたい一部の人だけの行動かもしれません。
しかし、近年は政治家や文化人と呼ばれる人たち、芸能人、また公職にある人たちまでもが、そういった言動や、極めてそれに近いことをおおっぴらに口にするようになってしまっています。
以前、石原慎太郎が環境庁長官だった頃、水俣病患者の人たちに対する暴言、差別的発言から最後には土下座して謝るといった事態がありました。
当時は、マスコミがその差別発言を大きく批判し、政治家の中からもそれをたしなめる声が上がっていました。
いま、その機能は果たされていないように思います。
かつて僕は、身近な信頼する人が差別的な発言をするのを耳にしたことがあります。
その人は戦前戦中に軍国主義教育を受けたその人の親からその価値観を引き継いでしまったようです。
そういった時代の背景、政治や社会によって作り上げられた価値観の影響はいかんともしがたいものがあります。
その言葉を聞いた時、僕は悲しい思いを感じたのと同時に、そういう時代の影響から「しかたなかったのだ」という諦観のようなものを感じました。
また、命の危機がなくモノの豊かな時代に生まれ育ち、それなりの教育を受けることができ、ものごとをそれなりに客観的に考えられるように育つことのできた自分の幸運を再確認しました。
しかし、今の状況はどうでしょう?
20年位前では恥ずかしくて口にだすことができなかったような、社会的弱者を攻撃したりする言葉をメディアや、周囲の一般の人の口からも耳にすることがあります。
まるで時代が逆行しているかのようです。
僕はそれに大変な危機感を感じます。
この度の事件は、ただの一人の犯罪者の凶行でしょうか?
現代の社会を形作っているものが、こういった凶行を行う人を作り出してはいないでしょうか……。
麻生太郎が副総理だったときだったしょうか。
「ナチズムには学ぶところがある」という発言をして問題になりました。
欧米諸国であれば、それだけで政権が転覆してしまいかねない発言でしたが、「いやいや悪意があっていったのではないのだよ」というような形でうやむやに終わりました。
一方で、同じ政党の長勢甚遠元法務大臣は、
「国民主権、基本的人権、平和主義、この3つをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」
などと民主主義を真っ向から否定することを、つい最近参院選前にも関わらず堂々と述べています。それを隣で総理大臣は黙って聞いています。
たしかにナチズムに学んでいるようですね。
今回の犯人もナチスに学びました。
ナチスはかつて障がい者の計画的殺人をしています。
ナチスの行った計画殺人としては、ユダヤ人を対象にしたホロコーストが有名ですが。
障がい者を持った人たちにも行っています。
これはドイツ人に対してです。
「アーリア人の優位性を保存するため」という理由で、障がい者を「劣悪な遺伝子を持っているもの」とし、それを淘汰するために去勢手術を施したり、安楽死をさせていきました。
「国家の役に立たないものに生きる価値はない」という思想ですね。
もうかつての時代の遺物だろうと思っていた言葉を、最近では頻繁に耳に目にするようになりました。
「国益」「売国奴」など。
「国益」という考えはなんとも恐ろしいですね。
「国家の利益にならないならば、個人の権利などは引っ込るべき」という考えを生みかねない言葉です。
それはまさに、長勢元大臣が主張するような「基本的人権の否定」ですね。
「子供の権利」といった、彼らの言うところの「甘っちょろい」ことを口にする僕のような人間も、このままいくと10年後とか20年後には「売国奴!」と言われて石を投げられたりするようになってしまうのでしょうか……。
以前、文筆家の曽野綾子が、野田聖子議員のお子さんが障がいを負って生まれたことに対して、「国民の税金を浪費しているにも関わらず……」といった文章を出しました。
この方は敬虔なカソリックと自称するわりには、常に大変に弱者に厳しいことを言う人として有名です。
この世代の方の一部には、障がいを負っている人を”社会に負担をかける不良分子”とみなす思想があるようです。
経済的な余裕が世の中になくなってくると、未成熟な社会では、いや成熟していると思われていた社会ですら、レイシズムや弱者の攻撃に向かいます。
かつてドイツが東西融合で経済低迷になった時期にそれは起こりましたが、EU結成による好景気がそれを激化するのをなんとか防ぎました。
アメリカがまさにいまそれになっていますね。
日本も、そうなりつつあります。
それらの影響を最も強く受けるのは、持たざるものである若い世代です。
僕は幸運にも、人種や宗教で人を差別したり、自らの鬱憤を弱者を攻撃することで解消するような思考を植え付けられることなく育つことができました。
でも、これから大きくなっていく子供たちも、そのように育つことができるでしょうか……。
家庭でのことならばなんとかできます。
しかし、長じて受ける様々な影響をコントロールするすべをいくら親だとて持てはしません。
そのときの、社会のあり方や、周囲の人の考え方。そこから子供たちはどのような影響を受けていくでしょうか。
それは、だれにも予測がつくことではありません。
公教育もあまり当てにはならなくなりつつあります。
「愛国教育」などと一歩間違えたら、あやういことを推し進めようとしています。
それは「単に言葉を曲解している」といった根も葉もないことではなく、戦前の「修身」のようなものを押す政治家も現におります。
首相夫人、外国風に言えばファーストレディ。通常ファーストレディは夫君の代弁者と考えられています。
その安倍首相夫人は、戦前の「教育勅語」を暗唱させる私立幼稚園に足を運び、その風景をみて「涙がでるほど感動した」と述べています。
そういったもろもろを考えはじめると、暗澹たる思いがして夜も寝られません。
今後日本の社会はどうなっていってしまうのでしょうか……。
| 2016-07-29 | その他 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
講演会のお知らせ 9月4日(日) in 名古屋 - 2016.07.29 Fri
今年は講演会がかなりあったのですが、一般募集のあるものはあまりなかったので告知しておりませんでした。
名古屋圏は読者の方も多いところでしたので、今回このような機会が持ててうれしいです。
お申し込みは、リンク先【ゆるぽか】さんのホームページから「申し込みフォーム」をご利用ください。
予約制ですのでご注意くださいね。
テーマ 『叱らなくていい子育て
~子育てのたったひとつの大切なこと~』
場所 飯田幼稚園
(名古屋市中村区向島町5-28)
・幼稚園へのお問い合わせはご遠慮ください
時間 9月4日(日)
※保育士、支援者向け 10:30~12:00(受付10:00~)
※保護者向け 14:00~15:30(受付13:30~)
料金 1800円(当日受付にてお支払い下さい)
| 2016-07-29 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
失われた感覚 - 2016.07.28 Thu
それがつかめたことが、保育士としてのステップアップにとても大きな意味を持ちました。
その感覚はその後の保育経験と、我が子の育児を通してある種の確信に発展し現在に至っています。
それがなければ、僕はこのように子育ての本を書いたりブログで発信することはなかったかもしれません。
その感覚を背景としたものは、これまでにもいろいろな方向から書いています。(ほとんどがそうといってもいいかもしれませんが)
例えば、「おおらかさ」が子育てで大切とか。
この前書いた、「目先のできること」よりも、「モチベーション」を維持していることのほうが大切であるとか。
他にも、「1のことには1の援助」の話や、「子供の感情は子供のもの」などなど。
それらの根っこには、その感覚があります。
言葉にしてみると、それは「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」そういうものではないかと思います。
それを僕は、多くの子供を見て、その経過、その成長した後の姿。また、親、保育士などの大人の関わり、そこから導き出される子供の姿。
そういったものをたくさん見てきたことで、それを観察し考察し、整理し、ある種の因果関係のようなものを理解してきました。
そう書くと難しいことのようですが、それは僕自身がそもそも子育てが”うまい”人間ではないことが原因です。
僕は本来それが下手な部類の人間だから、意識的にそれをせざるを得ませんでした。
この感覚を、最初から持てている人もいます。保育士にもいますし、一般の親にもいます。
そういう人は、保育士としても、親としてもその人のその感覚で、もちろん子育てにまつわる大変なことはあるにしても、それなりにうまくできてしまいます。
しかし、保育士を長年したからといってその感覚を持てるようになるかというと、必ずしもそうではありません。
子供を動かす「対象」、やらせるもの、作り出すもの、と徹頭徹尾みなしてしまう人はそれは難しいようです。
「どうせできないだろう」という気持ちが先立ってしまうのですね。
すると、「やらせずにはいられなくなってしまう」
それはいくら重ねても、子供が自分で必要なことを身に着けていくという結果を見られません。
その結果を見ることができないので、「子供はやっぱりできないもの」という認識に落ち着いてしまいます。
なので、いくら年数を重ねてもその感覚をつかむまでに至りません。
(いつまでたってもその人にとって、子供は「やらせる対象」でしかありません。それは「子供を信じられない」という問題に発展します。)
しかし、実はこの感覚は特殊なものではなかったのです。
かつては!
いまの70歳よりも年齢が上の人にとっては、例えば5人以上のきょうだいがいた人は珍しくありません。
その頃の家庭のあり方をちょっと思い浮かべてみましょう。
もし、5人の子を3年ごとに1人産んだとしたら、下の子と上の子の年齢差はおよそ15歳位になりますね。2年おきだとしても10歳差です。
そうなると、上の年齢の子はそれなりに物心ついた状態で、下の子の子育てを間近で見ることになります。
さらには、当時の母親は家事労働の多さから子育てにかかりきりになれない状況がありました。
(例えば、洗濯は洗濯板、繊維製品は今と違って高級品で手縫いが基本、風呂や炊事には薪や焚き付けが必要だった時代)
なので、上の子が子守をしなければならなかったり、家事の手伝いをしなければなりません。
そのように間近で、家事育児を目の当たりにし、経験しながら育ってきます。
逆に今度は下の子にとってはどうかというと、その頃はまだ現在よりも人生のサイクルが早かった時代です。
女性ならば20歳前後で結婚し20代で子供を産むということが当たり前と考えられてしました。
ですので、下の子は上のきょうだいが家庭を持ち、子育てするところを身近でみることになります。
(当時はまた、二世帯・三世帯同居が当たり前と考えられていた)
そういった状況がありますので、子育ては多くの人にとって”ある種の感覚”として、こういうときは子供にどう関わればいいかといったようなこと、そういったことが知らず知らず身につけられていたと考えられます。
具体的な関わり方もそうですし、僕が「子供との距離感」の問題としてあげているような、子供に対するときの気持ちの持ち方のことなども、かなりの部分その自然に身についていく感覚でカバーできてしまっただろうと思われます。
それらがある種の空気感のように、社会全体に漂っていたのではないでしょうか。
そういう状況ならば、子育てはさほど難しく感じたり、今のように不安ばかりが大きくなったりということは少なくできたはずです。
そして、そういった諸々が「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった実感を多くの人に感じさせていたことでしょう。
拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』を読んでくださった、75歳の方がこういった感想を下さいました。
「そうなんだよね。昔はこういったことは当たり前に多くの人がわかっていたのだけど、いまは教えなければならなくなってしまったのだよね」
とはいえ、時代は大きく変わりました。
僕は「昔はよかった、昔のようになりなさい」と最近の政治家がよく口にしているような考えを述べているのではありません。
むしろ、そういった懐古主義はなにも解決しないと思っています。
現代は現代の問題や状況を踏まえ、それに適切な対応をしていくべきだと考えます。
さて、タイトルを「失われた感覚」としたのは、かつて当たり前であったであろう、その「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった社会で多くの人が共有していたであろう感覚のことです。
いまは、そのように子育ての感覚を自然発生的に身につけている人は、非常にまれです。
家族の形、社会の形が変化する中で、その「当たり前」はいつのまにか失われてしまいました。
しかし、もしこれを伝えることができれば、子育ては無理のないもの、楽しめるもの、幸福感を感じさせてくれるものにできるのではないかと思っています。
僕自身、いまそう思えているからね。
僕はいくつかの偶然が重なってたまたま保育士になったのだけど、そうでなかったらきっと子育てに悩める側の一員であったのは確実です。
でも、僕は本来下手な人間だったことで、そこから学び、種々のことを意識的に理解することができるようになりました。
だからこそ、多くの人に無理のない子育てを伝えることが自分の使命なのだと感じています。
それは形のあるものではないから、伝えるのは簡単ではないけどね。
ママの知りたいが集まるアンテナ【ママテナ】にて監修した記事が掲載されています。
「次へ」から全部で3本です。
~”ほめる子育て”は間違いだった?~
| 2016-07-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
『ほめて ほしかった』 - 2016.07.23 Sat
【高知新聞】小1「おかあさんに ほめてほしかった。はんたいに おこった」
子育ての中には、この子供の思いと大人の思いとのすれ違いが少なくありません。
子育ては多くの場面でバランスなので、それもほどほどであれば大したこともないかもしれませんが、たくさんになったり、その関わりが強くなっていけば子供をかえって伸び悩ませてしまいます。
僕が多くの子を育ててきて思うのは、子供にとって「目先のできること」よりも、なにかものごとに取り組もうとする「意欲・モチベーション」の方が何十倍も大切であるということです。
このお母さんは「土曜日の分をやらせよう」とすることと引き換えに、子供の「勉強をしたい」というモチベーションの芽を摘み取ってしまっています。
しかし、多くの人にとっては、目に見えないモチベーションを育てることよりも、「目先のできること」を優先させたくなる誘惑は大きいようです。
これは勉強に限りません。
野菜が苦手な子だって無理やり食べさせずとも、モチベーションを否定しないでいけば、その子はその子のペースでそれを達成します。
「片付けをさせなければ」と子供に求める人は多いですが、「片付けなさい!」と「目先のできる」にとらわれて、子供に否定の方向性のアプローチばかりをしてしまえば、かえって「片付けなどやるもんか」と思う子供を作りかねません。
友達関係だってそうです。
他児にいじわるしたり、乱暴する子だったとしても、その行動を否定するだけでは子供は大人の思ったようには、なりたくともなれません。
子育てってそういう意味では、山道を歩いているようなもので、「そこに答えがあるから」と一直線に進もうとするとかえって遠回りになってしまうかのようです。
子育てには二種類の方向があります。
・「させていく」子育て
・「するようになる」子育て
です。
現代の子育ては、その多くが「させていく子育て」になってしまっています。
子供の感情から、行動まで。
すべてを大人が”作り出すよう”に子供に関わってしまっています。
「させていく子育て」は一度始めると、その後もずっと「させ続けなければ」ならなくなってしまいます。
なぜなら、そこにモチベーションはないかもしくは少なくなっているからです。
(これは子供の個性にも左右されます。させていくことを積み重ねても、それなりにモチベーションを維持できる子もおります。そういう子だと現代では結果的に「育てやすい子」とみなされます)
片付けを、目くじら立てて「やらせる」習慣をつけていけば、「やらせなければ」やらない子になってしまいます。
たいてい、その「やらせる」関わりは強くならざるを得ません。
そういうサイクルが子供の姿の多くの場面で行われるようになると、大人からして「子育ては大変だ……」になるのは時間の問題です。
「させていく子育て」には、子供にとって副作用がたくさんありますが、
大人にとっては大きな利点があります。
それは「させていくこと」で結果を目に見えて作ることができるので、「安心」が買えるという点です。
子供の将来は、どうしたって誰にだって未知数です。
その不安が大きいと、それを解消したくなるのが人間というものです。
だから、「私が」作り出すことによって「安心」したくなってしまいます。
この詩のシーンは、まさにそこになっています。
この子は、モチベーションにあふれていました。
しかし、母親によってそのモチベーションはしぼまされてしまっています。
このあと子供がどういう方向に進むかというのも、ケースによりさまざまですが、極端なところであげれば、モチベーションがなくなりそのものごとに意欲をなくしていく場合と、そのものごとへの自発的なモチベーションは無くなったが、親の期待に応えるために自己のモチベーションの代わりに、「頑張り」を費やしてその期待に応えていくケースがあります。
その「頑張り」は文字通り、「ついやして」いってしまうのです。すり減らすように。
本当は自分で人生を歩み出すまでにたくさんためておくべきだったそのエネルギーを、「親のために」使ってしまうのです。
本当に極端になると、子供はそれで「生きにくい」人生を送らなければならないケースもあります。
僕は、子供とくに小さいうちほどこのモチベーションをしっかり溜める時期だと思います。
このモチベーションのすごいところは、それが”共通している”ことです。
片付けのモチベーション、苦手なものも食べようとするモチベーション、勉強のモチベーション、遊びに取り組むモチベーション
「させていく子育て」で子供への関わりを組み立てると、それは一個一個「させていかなければ」なりません。
しかし、子供のモチベーションは根っこのところではつながっているのです。
「苦手な食べ物があったけど、それを否定されずに過ごして、いまは食べられるようになった。それをほめられてうれしかった」
この気持は、どこかでつながってそれが片付けや、勉強にもプラスに働いてくれます。
だから、たくさん認められたり、肯定されたりして育っていくと、その子はいろいろなものごとにその意欲を発揮します。
なにか好きなものがあって、それに打ちこんできた子はその他のことにも前向きになりやすいです。
いまは早期教育ブームまっさかりですが、一方で多くの子育ての研究者たちは「直接的な勉強ではなく、子供は遊びや生活の中でゆくゆくは勉強にもつながる力を養っているんですよ」といったことを訴えています。
ただの偶然なのかもしれませんが、ノーベル物理学賞などの科学的分野の受賞者の人に、幼少期昆虫好きであった人の比率がとても高いという話があります。
以前どこかで読んだものなので、その正確な数字は忘れてしまいましたが、かなりの比率だったと思います。
多様性の宝庫である昆虫には、子供の探究心を遺憾なく発揮させるなにかがあって、長じてからもそれがその人のなにかに打ち込む原動力になっているのかもしれませんね。
| 2016-07-23 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
子供の自立のために -必然性のある”できること”- - 2016.07.19 Tue
なので、ある程度意識しないとどうしてもそれに流されやすいです。
今回はそんなことについてちょっと書いてみます。
自立心というのは、さまざまな経験の中から育まれていきます。
生活上の経験、遊びの経験、友達との経験、外の世界での経験などなど。
そういったことのひとつひとつが、小さいながらも子供の中にその心を育てていきます。
それらは直接目に見えませんし、1を経験したからといって、すぐ1の力がつくというものでもありません。
ですが、日々なにげなく行われていることの蓄積は大きく積もっていきます。
そこで、それらの経験を子供に適切に積ませていけば、自然自然と子供の自立心が伸びていくわけですね。
「しつけ」について述べた記事ででてきました。
・子供のことを「どうせできないだろう」みなす気持ち
が大人にあれば、それらの経験は必然的に小さくなってしまいます。
また、
・「失敗させてはならない」
と思っていても、そういった経験は小さくなりますね。
それらの心持ちは、大人自身がある程度コントロールしたほうがいい点かと思います。
そして、誤解しないようにしてほしいのは、「〇〇をできるようにしなさい」「〇〇をできるようにがんばらせなさい」という意味ではない点です。
「しつけのメソッド」が頭に強くあって、僕の文章を読めばそのようにとってしまうかもしれませんが、そうではないというのが注意点です。
それで関わっていけば、子供に「やりなさい」「なんでやらないの」などとマイナスの関わりで組み立てることになっていきます。
それでは、子育てや子供への関わりが抑圧的になっていってしまいます。
そうではなく、プラスで組み立てていけるようにするのが大切です。
だから、「できるようにする」わけでも、「頑張らせる」わけでもないのです。
そのポイントとして2つ。
1,「できること」で組み立てること
2,必然性のあるもの
1,「できること」で組み立てること
とは、その言葉どおりですが注意点。
・子供はいつでも同じようにできるわけではない。それに目くじらを立てなくていい。
→子供にだって疲れている時もあれば、どうしたって気の乗らない時もあります。
どうしても今の段階でできなければならないことに対してならば別ですが、今回の話は自立心を伸ばすという観点からですから、子供ができないときがあっても、「ああ、そうなんだ」と流せるくらいでいいでしょう。
それがいつもやらないことならば、まだその課題は難易度が高かったのです。
少しもどって「できること」で見なおしてみましょう。
・自発的な”力の発揮”には時間がかかる
→大人が「やらせる」のならば短期間でできるようになるかもしれません。
しかし、それは大人が「やらせる」(強くなれば抑圧的に関わった)結果として「できる状態」が作りだされたのであって、必ずしも自立心の獲得ではありません。
子供自身の力として得させるためには、時間はどうしたってかかるのです。
なので、「できない結果」を見てそのいちいちに目くじらを立てるように関われば、自立心、自発性にはなりませんね。
「”やらされている”からやっているだけ」になってしまいます。
これだと、大人の見ていないところでは「やらない子」になってしまう可能性もあります。
だから、「いつでもできるわけではない。できないときがあっても、そういうものだ」と思っていく姿勢が必要でしょう。
2,必然性のあるもの
「大人にやらされている」のであれば、これは自立心にはつながりませんね。
だから、その物事は子供自身にとっても「ああ、必要なんだな」とわかるものごとにしておいたほうがいいわけです。
・「必然性」
例えば、以前の記事でも例にでました。
小学生であれば、「時間割(明日の持ち物)をそろえる」。
こういったことであれば、子供は自分のこととして必然性を感じられますね。
でも、大人が最初から全部やってあげていたりすれば、その子にとってそれは必然性は低くしか感じられないかもしれません。
・「習慣化」
行動はわかりやすく明確にしておくといいでしょう。
すると、子供は比較的習慣を守る性質をもっていますので、そのものごとが取り組みやすいです。
例えば、「帰ってきたら、帽子はここにかけてね」と、いつも決まった帽子をかける場所がある、など。
子供はいつでもできるわけではありませんから、そうなっていても放りっぱなしだったりすることもあるでしょう。
そうしたら、そこを責めるように怒ったり叱ったりするのではなく、「気づかせる」「考えさせる」ように関わる手段がとれます。
「帽子おきっぱなしですよ」
→伝える。「〇〇しなさい!」ではないことに注意。
事実だけを伝えて、考えさせるわけです。
→その上で自分からできたら、それを「認めれば」いい。
→できなかったら、再度伝えてもいいでしょうし。「ああ、今日はできない日なのだな」と思ってその時点で大人が手を貸すなり、やって上げるなりしてもいいでしょう。 →「ずっと置きっぱなしだったから、私がかけておきましたよ」
◆現代の子育てを見ていると、必然性があって子供にやらせられることに対しては、大人が過保護や過干渉になり「やってあげてしまう」一方で、子供にとって必然性の低いこと(勉強や習い事、そのものごとの発達段階に到達していないこと)には頑張らせ、駆り立てているような、アンバランスな関わりが非常に多く目につきます。
それの蓄積から、大人からの関わりが心地よくなくなってしまっている子。
頑張るエネルギーを使いきってしまっていて、本来ならばすんなりいくことがスムーズに行かなくなっている子が増えているようです。
その順序やバランスが適切であれば、もっと子育てはラクに行くだろうと思うのです。
| 2016-07-19 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「おててピン!」は”おばあちゃん保育” - 2016.07.16 Sat
Yahoo!ニュースの中のデイリー新潮からの記事で
7歳置き去り事件の発端「人や車に石投げ」……『いやいやえん』中川李枝子さんは「命にかかわることは叩いてでも教える」
というのが上がっています。
その中で、『ぐりとぐら』の作者として有名な元保育士の中川李枝子さんの最近刊行された『子どもはみんな問題児。』の中の一節を引用して記事が書かれています。
ちなみに、これは中川李枝子さんに「北海道の置き去り事件についてどう思いますか?」とインタビューして返ってきたお話ではなく、おそらくデイリー新潮の編集者の人がこの事件に本の内容を関連付けて記事にしているだけであると思われます。『子どもはみんな問題児。』も新潮社刊。
中川李枝子さんにその著書の中で、”とっておきの方法”として本当にすべきでないことに対しては「おててピン!」という対応を書いているのです。
こちらの記事からその部分を引用しますね。
「ときに説明するより叩いて教えるのが先、急を要するということがあります。
そんな時は『これっ、いけません』とにらみ、『おててピン!』『あんよピン!』。
ここで勢いに任せて叩くのはご法度。ごく軽くさわる程度に『叩く』のです。
ガス栓をいじる。お友だちを蹴っ飛ばす、ひっかく、髪の毛を引っぱる。
そのたびに悪い手、悪い足を軽く叩きます。でも声だけは『ピン!』と厳しく叱ってください。
子どもは『うえーん、いたいよー』と泣いて、それでおしまい。
そのうち叩かなくても『ピンよ!』とにらむだけで『いたいよー』と泣くようになり、その効果はてきめんすぎるほどでした。
先生に『めっ』と叱られ、『ピン』の響きでいけないことだったと後悔、泣いて反省を示す。
これが私の勤めていたみどり保育園の日常のひとコマでもありました。
年長児になると、不思議とこの決まりごとは消滅して『めっ』も『ピン』も不要、聞き分けのよい子になっていました」
ちょうど僕も先月くらいにこの本を読んでいたのですが、この件は「ああ、今の時代に昭和の保育をずいぶんどうどうと書いているんだな~」と「あちゃー」といった気分で読んでいました。
これは、幸せな時代に幸せな家庭の幸せな子を幸せな人が育てた時にだけ通用する方法でしかないと僕は思います。
もし、若い保育士さんに「職場の先輩が子供に”おててピンッ!”って叩いているんだけど、どうなんでしょう?」と聞かれたら、「ああ、それは”おばあちゃん保育”だから、あなたは真似しないようにね」と忠告しなければならないことでしょう。
もしそれをしていったら、その保育士は例えば発達障がいなど特別な個性の強い子に対して適切な対応ができなくなります。
結局のところ、「しつけのメソッド」の枠組みの中で「できる子」相手に子育てを考えているのですね。
” 年長児になると、不思議とこの決まりごとは消滅して『めっ』も『ピン』も不要、聞き分けのよい子になっていました”
この思いは、非常に主観的なものです。
ぜんぜん気にしない子もいるでしょう。
でも、一生そのようにされたことを忘れない子だって出てきます。
「しつけだからそうすることは必要」といった考えで、どれほどの保育士がどれほど不適切なことを行ってきたか……。
実際に中川さんの周りには、そのような不適切なことはなかったかもしれません。
もしくは、子供への基本的な関わり方がうまく、受容などが十分に適切に行われていたために、中川さんがそれをしてもさして問題なく子育てや保育が可能だったかもしれません。
おそらくはそうなのでしょう。
しかし、それは現代において、決して一般化できないことなのです。
それをあっけらかんと、一般の子育てしている人に言えてしまうのだから、きっと幸せなケースしかみないで、もしくは幸せなケースを念頭に置いて書かれているのでしょう。
しかし、「いけないことをしたからとっさに叩く」
これは、「動物のしつけ」「調教」と同じレベルの考え方ではないでしょうか。
まさに”しつけのメソッドによる子供観”がここにはありますね。
「子供を低いもの」「わからないもの」とみなす、子供を尊重しない見方です。
人によっては、この本を「子育ての専門家が書いているのだから」と読む人もいることでしょう。
というかほとんどの人がそう思って読むのではないかな。
その人達の中には、「おててピン」が功を奏して、それで子育てが安定化していけるケースもあることでしょう。
そういう「幸せなケース」が。
でも、「おててピン」からはじまって子供の年齢が大きくなったり、行動や自我が大きくなるに連れて、バシバシ叩きまくって、それでも子供が思い通りにならず、たくさんの暴言や怒りのなかで子育てを送らざるをえなくなってしまうようなケースだってでてくることでしょう。
結局のところ、「おててピン」は「行き過ぎないこと」を前提に「しつけのメソッド」で子育てを考えているだけなのです。
このYahoo!ニュースに転載された記事は、場合によっては子育てする人や子供を追い込むことになりかねないので、僕もここで危惧を表明しておきたいと思います。
僕に言わせれば、「おててピン」方式の子育てが行き過ぎてこじれた結果、今回の子供置き去り事件に発展しているわけです。
これでは問題視していることと、それに対する解決策が同じになっています。
そういった意味では、この記事は問題の本質をとらえていないと感じられます。
(まあ本のせんでんをしたかっ……ゲフンゲフン)
しかし、Yahoo!ニュースのコメントの流れは「”おててピン”なんかじゃ甘すぎる」という趣旨のものが多くて、「調教しろ」だとか「なめられるな」ということばが出てきています。
まだまだ子育てを心から楽しめるようになる時代が来るのは先になるだろうと感じてしまいます。
| 2016-07-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
「しつけ」にまつわる本紹介 - 2016.07.13 Wed
『かわいい子には旅をさせよ』 vol.1
この↑記事タイトルが変わってしまいましたが、内容的には
『現代版 子育ての必須知識 vol.1』
こちらに続いているものと考えてください。
このことには、背景に「子供のちからを信じる」という、「子供の尊重」の概念が隠れています。
「信じて待つ」で検索しても関連の記事がでてくるでしょう。
さて、ここ一ヶ月以上、「しつけ」にまつわる話をしてきました。
保育についてもあれば、家庭の子育てについての記事も、ほとんどが「しつけの考え方」に関わる記事だったと思います。
「しつけ」はすごく難しいテーマです。
誤解や批判もあろうことはわかっています。特に感情的なそれも少なくないでしょう。
その理由のひとつは、実は大人も「しつけ」の規範のなかで生きているからです。
外国人向けの観光ガイドブックに、日本の電車に乗る時の注意点としてこんなことが書かれているものがあるのだそうです。
「日本では、車内で会話している人はいない、静かに乗車することを心がけなければならない」
まあ、会話している人がいないというのは言い過ぎだとは思いますが、そう言われると確かに静かにするといった規範を無意識に持っているようではありますね。
そんなところに端的に現れているのですが、実は大人も「しつけ」で生きているのですね。
だから子育てだけの問題ではない部分があります。
「しつけの規範」を自分自身の中でも重視している人も少なくないわけです。
(「しつけの問題点」などと言っているから、僕のことをアナーキストか何かのように感じる方もいるかもしれませんが、僕自身もその「しつけの規範を」大変強く持っています。ただ問題点を知っているので、客観視できるよう務めているだけです)
そのため人によっては、「しつけ」の問題点をあげると、まるで「自分自身が責められている」ようにとってしまう人がいるわけです。
感情的になって、書いていないことまで誤読する人もいます。
だから、世の子育て関連の人は「しつけ」の構造的な問題点などに気がついている人がいても、それに触れないほうが無難なのでしょうね。
「しつけには大きな問題点がある」というよりも、「こんなうまいしつけの方法がありますよ」って言ったほうが、本だって10倍売れるでしょうしね。
でも、僕は馬鹿正直で器用には生きられないので、子育てのために本当に必要だと思うことを述べるまでです。
最近の記事だけ読んだ人はいざしらず、このブログももう7年書いてきて、以前から読んでいる方には僕が他者をおとしめめたり、けなすために書いているのではないことはお分かりになることと思います。
僕は現実に、「厳しいしつけ」や「行き過ぎたしつけ」によって、その人格を良くない方に捻じ曲げられてしまった子や、萎縮した性格に育ってしまったり、自己肯定感を持てないで育っていく子などを見てきました。
親が「よかれ」と思ってすることによって、意地悪になってしまったり、人を信頼できなくなったりする子がいるということです。
子育ての相談を受ける中で、親自身がその生育歴から大人になった現在でも苦しんでいる人、自身の子育てに直面したことで苦しみが再開した人などが大勢いることも感じています。
そんなこんなで思うのは、「支配で人は育たない」ということです。
「支配」を強化して育てると、「支配すること」を好む人格や、「支配されること」を好む人格が出来上がりやすいです。また他者の感情に鈍感な性質を持たせることもあります。
そういった人格を獲得させられると、その人が”幸福感”を得ることはとても難しくなってしまいます。
子育て関連の人で、あまり「しつけ」を問題視する人は多くありません。
そのいい部分しか描いていないからね。
しかし、心理学者や心理カウンセラー、心にまつわる医師は、かなり以前からこのあたりのことに真剣に取り組んできていました。
僕自身で、そのことをお伝えするのは限界があるので、読み易めの二冊の本を挙げておきます。
興味のある方は手にとって見てください。
どちらとも大変お勧めできる本です。(↓アドブロックなどの設定をしていると見えないかもしれません)
| 2016-07-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
「なめられるな」は保育ではない! vol.2 - 2016.07.09 Sat
まずはおしらせからです。
メール相談を若干名再開いたしました。
一件づつ丁寧にお答えしていきたいので、少数ずつお受けしております。
そのため、お待ちの方にはご迷惑をお掛けしてしまいますが、どうぞご理解ください。
来月8月は講演等が少ない時期ですので、これからはそれなりの件数をお受けできるかと思います。
(今月はめちゃくちゃ忙しかったのです~)
では今回は、保育において「信頼関係」を基にしたアプローチとはどういうことなのかについて見ていきます。
(ちなみに、保育セミナーの2期ではこのテーマをより深くお伝えしていく予定です)
前回あげた、「部屋から子供が出ていこうとすること」から見ていきますね。
・ドアを閉めなければならない、施錠しなければならない、柵を高くしなければならない
それらのことがでてきましたね。
それと、参加者の方から寄せられた園の状況で、柵に登る子に落とす(ふりをする)ことでそうしないよう教えこむといったこともありました。
子供のことを「支配のアプローチ」で考える人、「子供はできないものだ」といった先入観を持っている人などが、子供が部屋から出ていこうとする姿を見ると、それをさせまいとする「ダメ出し」の関わりやそれの強化をまずは考えます。
その過程で、その人の力量・対人コミュニケーションのあり方に応じた様々な手段ができます。
(注意の多発・叱る・怒る・脅す・疎外・他者と比べることでその姿をなくそうとする・ごまかす・子供だまし・釣るなど)
それらは、どんなに優しく言おうとも、ほとんどがその子への「否定」のアプローチになっています。
また、これらはそれでも子供の姿が大人の思い通りにならないと、「冷淡さ」に向かっていくリスクを秘めています。
それをしたところで、子供のその姿が止まないと、その大人は「あきらめ」や「その子への不信」という感情を心に持ってしまいます。
「この子は何度言ってもわからない。どうせできない子なのだ」
そのようになってしまうので、そこでの問題、
「保育室から勝手に出ていこうとする」
これを解決する手段は、物理的対応に行き着きます。
施錠や柵などの物的環境。他にも大人の人手を増やすこともそうです。
結局は子供の行動を抑えつける・制限するために、物的環境や大人の人数を使ってしまうのです。
そのような物理的な条件を整えなければならないといったことも、さまざまな状況・子供といったことがありますから、なかには必要なこともあるでしょう。
しかし、「それが当然」となってしまったら、その保育に発展はないでしょう。
なぜなら、その方向性の対応をしているうちは、いくらしたところで問題の解決をしてはいないからです。
それは子供を支配・管理しているだけです。
保育士は子供に点数をつける仕事ではありません。
現状の結果だけみて、「いいわね」「悪いわね」では済まないのです。
その子の問題点を汲み取る視点を持っている必要があります。
「その子はなんで”そういう姿”が(問題が)出ているのだろう?」
子供の問題にあたった時、大人が「こうすべき!」だけで見ていたら、子供の否定や力づくで抑えつける方向性の関わりしかでてきません。
「この子のために、いま何が必要か?」という見方をしていかなければならないのです。
これを僕は「援助の視点」と呼んでいます。
「しつけのメソッド」だけでは保育はできないのです。
「しつけのメソッド」で済むのは、「それが通用する子」に限られます。
”もともとできる子”や、注意や否定といった「しつけ」の関わりで”できるようになる子”しか対応できないのです。
だから、この「しつけのメソッド」だけしか持たない保育士は、それ以外の子に対して冷淡になっていったり、優しい人で冷淡にはならない人であっても、”お手上げ”や”無関心”になりかねません。
そしてその見方は、子供を「落ちこぼれ」にしてしまいます。
僕はそういう保育士もたくさん見てきました。
これでは保育の仕事は面白くはなりません。
「可愛い子」「できる子」ばかりを見ていればいいのであれば、まあ楽しいかもしれませんが。
子供が大人の意に反して保育室から出ていこうとする状態は、「不安」や「不信」の表れです。
その環境に不安があるケースもあるでしょう、障がいや発達上の特徴のある子にそういうことはしばしばありますし、新入園児などにもよくあることです。
しかし、その保育士に対して「不安・不信」を持っているがゆえに、その部屋が居心地がよく感じられず、その部屋から出ていこうとすることは、その保育士・保育に対するとても大きな問題です。
なぜなら、それは保育に必須なことが欠けているから。
それに気づかず、物理的に、または人手の多さで抑えつけることをしていけば、ずっとその子やそのクラスは安定しないままになっていきます。
「子供はわからないもの」「子供は言うことを聞かせるもの」「子供は大人に従うべきもの」
そのような見方でしか子供を捉えられないと、子供と大人の心はつながりません。
それでは、表面的な信頼関係以上のものは構築されないでしょう。
そのような保育士に対しても子供はある程度の信頼感は持ちます。
しかし、それは「そこで過ごすにはその大人に頼るしかないから……」というレベルでの信頼感にとどまります。
子供によっては、それはすぐに必要なだけの信頼感を下回ってしまいます。
下回った子は、その保育士のことには当然ながらあまり従いません。
「仕方がないから従う」程度のものです。
そういう子の中には、部屋から出ていこうとする子も出てきてしまいます。
それは「その部屋よりも室外に行ったほうが居心地がいい」と子供に感じさせているからです。
それを、物理で抑えることで対応していたら、その子もクラスも安定に向かうことはありません。
”物理的対応が必要なことはある、しかしそれは通過点として”
であるべきなのです。
保育士がその子と適切な信頼関係を築けていれば、そうそう子供はそこから出ていこうとはしません。
だって、その人がいる場所の方が安心だもの。
だから、前回述べたように
「”安全・安心”をプレゼントすること」
が保育の第一の目的なのです。
どの子も家庭が一番です。それでも保育園に来るからには、そこの大人がそれに変わる場としての安心感を示してあげなければなりませんね。
だから、保育士が第一に目指すべきなのは、「この室内にいなければならない。出ていこうとするのなら出て行かないようにしなければ」ではなく、「その子がこの環境になんらかの不安・不信を感じているのならば、そこをサポートしてあげなければ」という見方なのです。
しかし、これまでの日本の子育ての中には、意図的に信頼関係を構築するというプロセスがなかったように、やはり保育の中でも見過ごされがちになっています。
かつては、他者への信頼関係を持ったうえで家庭外に出てくる子の比率が多かったです。
いまは、さまざまな時代・環境の変化からそれが難しくなっています。
保育士が「しつけ」で保育を考えたら、そのメソッドに信頼関係を築くアプローチは含まれていないでしょう。
だから、「〇〇できること」を保育の最初においてはならないのです。
信頼関係を築くことが第一に必要です。
では、信頼関係を築くためには?
それは、「受容」であり「肯定」です。
この二つは、さまざまな方法で子供に伝えていくことができます。
しかし、それが難しいのは、大人の心持ちひとつでその性質が簡単に変わってしまうことです。
例えば、「子供を見守る」ということだって、
あたたかく微笑みながら見ているのならば「肯定」になるけれど、
「なにかしやしないか」「噛みつきがではしないか」、「言ってもどうせ聞かないわよね」、「うんざりだわ」そういった気持で見ていれば、子供の敏感な心はその目線を「否定」と感じます。
そのようなあからさまな否定的な見方でなくとも、「どうしたらいいのかしら……困ったわね……」といったおどおどした態度だったりしても、やはり子供からは「否定」に近いものとして感じられてしまいます。
『医は仁術』なんていう言葉があります。
「仁」というのは、”おもいやり”という意味でもあり、”人”という意味でもあり、”心”という意味でもありますね。
保育も、まったくそうだと思うのです。
そしてその部分は、形がないので見えません。
でも、大人には見えなくても、そこにいる子供はしっかりと感じています。
自分に対して「否定」の見方になっている人だったら、上辺はどう取り繕うとも子供は信頼感を厚くしません。
だから保育の一番最初に来るのは、「子供を〇〇できる子にすること」ではなく、
「”安全・安心”を”プレゼント”すること」なのです。
| 2016-07-09 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「なめられるな」は保育ではない! - 2016.07.05 Tue
具体的にはこんな事例も寄せられました。
・遊具の取り合いで相手を叩いてしまった1,2歳児に「先生も○○ちゃんのこと叩いていい?」と脅す
・ドアの柵に上って部屋の外に出ようとする子に対して、わざとその上った柵から落とすことで恐怖感を味合わせ、それをさせないようにする
・食べこぼしのある1歳児に対して、冷たいニュアンスでダメ出しを繰り返していく
・「あなたが甘いから子供が言うことを聞かなくなるのだ」と、厳しさ冷淡さを出すことを先輩保育士から要求される
・言うことを聞かない子に対して、まるで罰を与えるように集団から隔離して疎外感を味合わせることで大人の指示を聞かせようとしむける
などなど。
こういった保育が、日本中でまだまだ行われていると思うと大変残念に感じます。
不当に扱われる子供の気持ちを考えるとはっきり言って怒りすら覚えますが、同時に「かわいそうだな」とも強く感じます。
「かわいそう」というのは、その保育士に対してです。
そのような形でしか保育を身につけさせてもらえなかったということが、嫌味ではなく本当にかわいそうだと思います。
たぶん、そのような保育をしていてもあんまり楽しくはないのではないでしょうか。
そのような支配型の保育をしている人にもいろいろいます。
なかにはもともとのその人の性格が他者に対して支配的だったり、高圧的な傾向を持っていて保育でもそれがでているケースもあれば、子供のことを大事に思えていて善意やあたたかみも持っていながらも、「そういうことが保育なのだ」と理解してしまっていて子供にそのような保育をしてしまっている人も少なくありません。
僕は思うのだけど、保育の専門性と保育の実践との間には大きな乖離(かいり)があります。
本来それは一致していなければならないのに、まるで別個のようになってしまっています。
「子供になめられるな」といった子供への見方や、それに類するようなことは、保育の大学や養成校で教えられたことなどまったくないはずです。
しかし、現実にはそのような保育が横行してしまっています。
本当はそこで習っていることは「子供になめられるな」といった考え方とはまったく逆の子供の見方・関わり方です。
これでは、学校で習ったこと、もしくは資格を取得するために学んだことまったく無駄になっているということです。
つまり保育士は、国家資格とは名ばかりでその専門性は認められない状態と言われても仕方ありません。
セミナーに参加された方の中には、学生の時に実習にいった先の保育園がしていることがあまりにおかしく感じたので、保育園に就職するのをやめてしまったという方もいらっしゃいました。
立派な保育をしているところももちろんあります。
しかし、とても専門性があるとは言えないレベルの施設も少なくないのが現実です。
これからの時代、保育のもつポテンシャルはさらに重要になっていきます。
保育は現代に適応する形で変わらなければなりません。
はっきり言ってしまうと、「子供になめられるな」と保育士が言っているようではあまりに勉強不足。それは40年前の保育です。
40年前ですらそれはいい保育ではないけれども、家庭の養育力などがあって園でそのように不当に扱われても何とか子供はバランスがとることが可能でした。
でも、現代ではそれは無理です。
保育をきちんとしようと思ったら、「なめられるな」という言葉はけっして出てこないのです。
「そんなわけはない、保育において子供になめられないことは何より重要だ」と思われる保育士の方がもしいましたら、学生の時につかった教科書を見返してみて下さい。
それが40年前のものであろうと、今のものであろうと、「なめられるな」に類するようなこと「保育者は威厳が大切」そういったことも含めて一切書いていないはずです。
「子供になめられるな」という保育は、「しつけのメソッド」を背景とした”支配型の関わり”が導き出してしまっている保育観です。
これで保育をしていくと、多くの場合行きつくのは”冷淡さ”です。
「子供を○○にしなければならない」
それを第一の目的としてしまえば、浮き上がって見えてくるのが「その子のできないところ」になるのは時間の問題です。
そこでは、あたたかみのある人でも「できないわね」「困ったわね」「どうすればいいのかしら…」という、子供からすると受け入れられていないと感じるものがかもしだされます。
あたたかみがない人がそれをしたら、「できない姿のこの子は受け入れるのには値しない」といった冷淡な見方に簡単になってしまいます。
そういう人は「できる子」しかかわいがれなくなります。「できない子」はおちこぼれにしてしまいます。
それでは専門職としてのプロではありません。
保育において、第一の目的は「○○できる子にすること」ではないのです。
このことがすでに保育者の大きな誤解となっています。
保育の第一の目的は、「”安全・安心”をプレゼントすること」なのです。
”安全・安心”というのは、物理的な安全確保のことではありません。(物理的な安全面への配慮はすでにして大前提ですので言うまでもないことです)
ここでいう”安全・安心”は、そこにいる大人つまり保育者が、「あなたはここにいていいんだよ。ここはあなたの居場所だよ。私がそれを支えるから、私を頼りにしていいんだよ」と態度・表情・言葉がけ・関わりの姿勢・心持ちなどで体現しそれを感情レベルでかもし出し伝えることです。
だから、保育者からの「プレゼント」なのです。
極端なことを言えば、これが保育のすべてと言っても過言ではありません。
ここさえきちんとできれば、「子供の○○を伸ばさなければ」といったことは大人が作り出す必要などそもそもないのです。
子供は、おのおのが必要なことを自分で身につけ実践し獲得していく力を持っているからです。
しかし、保育や子育てを”支配”で組み立てていくと、子供のその”自分で伸びるという力”は発現されなくなってしまいます。
大人がやらせたり、与えなければ「それができない」「やろうとしない」性質を持たせてしまうからです。
その結果「子供は自分ではどうせできないわよね」「子供はわからないもの」といった感覚を持っている保育士も少なくありません。
これは「子供の力を見くびった見方」です。
それは大変残念なことです。
でも、一般の人が子育てで考えている「しつけ」のレベルで保育をしていたら、その構造にとらわれてしまうのを避けるのは難しいです。
子供が遊具の取り合いをしていたとします。
「取り合いはよくないのだ。仲良く遊べることがよいことなのだ」といった「○○すべき」という見方で子供の姿をとらえていたら、
大人はそこに介入せずにはいられなくなります。
「人のものとっちゃダメでしょ」
「それは○○ちゃんが使っていた」
「あなたが悪いからあやまりなさい」
「人のものは取らないとお約束してね」
「約束したのになんで守らないの」
しかし、それをしていたら子供の本当の成長は得られません。
常に「大人が介入する」ことでようやく「正の状態」が作り出されるだけにしかならないのです。
0歳からそれをやっていけば、5歳の年長になってすらそれは変わらないのです。
しかし、「しつけのメソッド」で保育を考えていたら、大人はその介入することを要求されます。
でも、それをいくらやっても子供の姿は思い通りにならないので、保育士は子供を思い通りにするスキルを発明して、それを身につけていってしまいます。
疎外や脅し、ごまかし、子供だまし
はたまたこんな手段もあります。
「子供は遊具をたくさん出すと取り合いになってしまうから、遊具は一度に一種類しか出さない」
これは、物理的に問題がでない環境を作り出しているにすぎません。
そういった姿勢から遊びの時間になると、子供の手の届かない棚の上に置いてある遊具の入ったかごから床にどばっ~と一種類の遊具をぶちまけて遊ばせているような園もあります。
そういった園の子供は「せんせ~、○○してもいい?」と「してもいい?」ばかりを覚えて帰ってきます。
保育者が子供の管理者・支配者となって、子供はそこで常に管理された状態に置かれてしまっているわけです。
そんな園でも保育理念や目標・うたい文句に「子供の自主性を尊重します」「子供一人一人の個性を大事にします」「主体性を重んじた保育をしています」などと書いてあったりします。
これも、理念と実践の乖離(かいり)ですね。
しかし、そこの保育者は自分たちの保育がその理念と矛盾していることに気づいてすらいないといった現実があります。
そのように支配型の保育は物理的解決に行きつきます。
「子供がすぐ部屋から出ていってしまうので、保育室には毎回子供の手の届かないカギをかけなければならない」
「子供が柵を乗り越えようとするので、それまで腰高だった柵を天井までの柵に変えた」
そんな保育になっているところも少なくありません。
保育室や園の廊下に天井までの柵があると、すごい異様です。
まるで刑務所みたい。
でも、その保育士たちはそれを異様とは感じなくなってしまいます。
目的がそれ(物理的解決)を要求しているから。
背景には、子供を支配対象としてみて「大人の思い通りにすること」が保育になっているからです。
同様に、「この子達は大変だから人手が足りない」と言うようになります。
支配型の保育を旨とする人は、保育が不適切なために”子供を大変な状態”に追い込んでいることに気づけなくなってしまうのです。
さらには、子供の姿が「(その人の目から見て)正しくなくなっていること」を、その子供のせいや家庭・親のせいにしてしまいます。
「あの子はわからない子だ」
「あのうちは甘やかすから言うことを聞かないのだ」
「愛情が足りないからだ」
「しつけがなっていないから」
「ひとり親だから」
また、「発達障がいがあるのでは」とレッテルばりをしてしまったりも見受けられます。
「子供を大人の思い通りにすること」を目的としていけば、保育はどんどんあさっての方にむかって進んでいきます。
子供はそもそも「支配」する必要などないのです。
しかし、これは実践を目の当たりにさせないとなかなか理解できないことです。
それが実践できる保育者がいない施設では、「子供はどうせわからないものよね」といった見方から脱却することがなかなかできません。
保育を伝えることがとても難しく感じる点です。
では、「支配」でなければどうすればいいのだ?
その答えは「信頼関係」です。
次回は、今回の話に出たケースをモデルに「信頼関係」を基にしたアプローチを見ていきたいと思います。
| 2016-07-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
保育セミナーを終えて - 2016.07.03 Sun
ご参加くださったみなさまお疲れさまでした。
僕の悪い癖で、伝えたいことがたくさんありすぎていつも詰め込みすぎの講演になってしまうのですが、今回もやはり伝えたいと思えば思うほど詰め込んでしまって、お話を聞く方はたいへんだったかなと思います。
熱意があふれてしまっているのだとあたたかい目で見ていただければ幸いです。
セミナーで伝えたことが少しでも実際の保育の役に立ってくれればいいのですが、みなさんいろいろな状況でお仕事なさっていると思いますので、即現実にそぐわないということもあるかと思います。
でも、”保育の核になるなにか”を持てるようになることで、さまざまな子供への見方の助けになることもあるでしょう。
僕が多くの現役の保育士の方と関わって感じるのは、よりよい保育をしたいという誠意や熱意のある方はたくさんいるのに、なかなか現実にそれが実践できる場が得られないというもどかしさです。
しかし、僕は思うのです。
そういう人がその園にいてくれることで救われる子供がたくさんいるであろうことを。
保育士の誠実さを理解してくれる人はなかなかいません。
同じ職場の職員が最大の無理解者であることも少なくないです。
でも、子供だけはその人が自分を好意的に受け入れてくれようとしていることを理解しています。
形としては表せないこともほとんどですが。
でも、それを糧に日々の保育に取り組むことが保育士のやりがいなのだろうと感じます。
今回二回のセミナーで、多くのやる気と誠実さにあふれる保育者と関われたことが、僕にとってもさらなるモチベーションとなりました。ありがとうございます。
そんな感傷的な勢いのまま、ちょっとした夢想をしたくなります。
それは、今回参加してくれたような、こういった人たちと一緒に園を作り上げられたらそれはいい園がつくれるのだろうな……なんてことを。
第二シーズンは、秋ごろに「信頼関係を基にした保育」のようなテーマでより、実践的なところをお伝えしていきたいと構想しています。
今回参加してくださった方はもちろん、今回参加できなかったかたもどうぞいらしてください。
| 2016-07-03 | 講座・ワークショップ | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
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