少年父親「遺族に謝罪したい」 川崎中1殺害、第3回公判
川崎市川崎区の多摩川河川敷で昨年2月に起きた中学1年上村遼太さん=当時(13)=殺害事件で、殺人と傷害の罪に問われた主導的立場とされる無職少年(19)の裁判員裁判の第3回公判が4日、横浜地裁(近藤宏子裁判長)で開かれ、情状証人として出廷した少年の父親は「相談に乗っていればよかった。遺族に会って謝罪したい」と述べた。
父親は少年の性格について「気が小さく、口数が少ない。心に秘めてしまう。問題があれば言ってくれればよかった」と語った。うそをついたり、人にけがをさせたりすると、少年に正座をさせ、平手でたたき、蹴ることもあったと明かした。(神戸新聞NEXT 2016/2/4)
主犯格の少年の父親の言葉です。
その子は、気が小さいんじゃない。口数が少ないんじゃない。その子の性格ゆえに、心に秘めてしまうわけでもない。
モラハラをする支配者の前ではだれもがそうなるだけです。
そしてその人に対して心を開くことはできなくなります。
”問題があればいってくれればよかった”?
言えるわけがない・・・・・・。
普段からモラハラによって、人格や行動の支配を受けていると、しばしば他者やモノに対しての攻撃性が高まります。
それに対して、暴力でそれを封じ込めようとすれば、その攻撃性はより大きくなるばかりです。そして、往々にして支配者に刃向かうのではなく、より弱い存在へその攻撃性を向けるようになります。
さらに他者へ支配的に関わりたいという欲求が生まれます。サディスティックな快感を求めるようになる場合もあります。
逆に、萎縮して自分の殻に閉じこもってしまうようになる場合もあります。
日本では現状、こういった少年犯罪において親の養育責任を問う法律はありません。
その結果、子供が親の不始末の責めを負わなければならないという、やるせない現実だけが残ります。
体罰は、例えそれでうまくいったという成功例の話があるとしても、決して適切な子育て方法にはなりません。
それはどこまでいっても暴力をともなった、モラハラでしかないのです。
そしてそれをされて育った人は、モラハラをする人格を獲得する場合があります。
つまり、体罰で子供を育てることはモラハラする人間を作りかねないのです。そうしてそれは連鎖されてしまいます。
体罰を振るって子育てする人、「子育てに体罰は必要だ」と主張する人、そういった人たちはすでにその人自身がモラハラ体質を持っている場合があります。そうなると、その人は体罰を振るうことを否定できません。
なぜならそれはすなわち自己否定になってしまうからです。
体罰を当たり前のこととしていた軍国主義教育時代から70年も過ぎているのに、いまだに日本の社会はそれを克服しきれていません。
むしろ、最近ではそういった「いまの子供は叩かれもしないで、甘ったれている」的な論がまた大きくなりつつあるようです。方々でそれを耳にします。
それでは、進歩するどころか逆戻りです。
「体罰はしつけ」という考えは、もう乗り越えなければならない時代です。
こういった悲惨な事件を繰り返さないためにも、ひとりひとりがその意識を持つことが大切です。