論文の補足 - 2014.10.30 Thu
『ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.2』こちらの続きは落ち着いてから書きます。
論文について、いくつかご指摘や質問がありましたのでこちらは先にお答えしておきます。
まず、最初の小論文の方の「指導」と「援助」の語についてですが、たしかに読み返してみると「援助」に関する概念の定義というのがあいまいなまま書かれてしまっていますね。
短時間で勢いにまかせて書いてしまったのと、自分としては「援助」という概念はあまりに身近で自明なものだったので、ことさら定義を述べるというところを省いてしまったようです。文脈からはおおよその意味がくみ取れるかとは思いますが、たしかにこれでは論文としてはよくありませんね。
次回に活かします。ご指摘ありがとうございました。
一応、過去の記事でもこのあたりについては触れたものがあります。
この論文の大元になっている記事ですね。
『保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.3 「視点」への意識』
『保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.4 保育園における「指導から援助へ」』
このあたりです。
大まかな意味合いとしては、
「指導」というのは、目的ありきでアプローチする視点。
「援助」というのは、その人ありきでアプローチする視点。
ではないかと僕はイメージしてます。
ぽりさんのご指摘
>従来の「指導」の説明から入ると、そこに軸足を置いておられる方が読んだ場合には、何を言いたいのかがボケてしまう気がしました。
これはまさにその通りだと思います。
書いた段階ではその懸念は覚えつつも、勢いが勝ってしまってそこを担保するところまで論がまわりませんでした。
いまのところは読んで下さる方のご賢察を願うばかりです。
今後そのあたりにも手当てできるように考察を深めていきたいと思います。
次に、ノーマリゼーションとノーマルシーの定義についてですが。
ノーマルシーというのも別に僕の造語というわけではありません。
語としてはどちらも名詞であって、似た意味合いをもっているものですが、
ニュアンスを強調して訳した場合、
ノーマリゼーションは「正常化すること」
ノーマルシーは「正常なこと」
という当たりでしょうか。
なので語自体には明確な違いの意味合いというものがあるわけではありません、福祉論の中で概念を付託された語と考えてよいでしょう。
このノーマリゼーションとノーマルシーを概念化しその差異を指摘しているのは、ノーマリゼーションの提唱者であるバンク-ミケルセン本人です。
参考文献にあげた
『ノーマリゼーション(normalization)の原理』
N.E.バンク-ミケルセン 中園康夫 訳 四国学院大学 論集42
にその一節がありますので、ここに抜粋しておきます。
ノーマリゼーションは、精神遅滞者をいわゆるノーマルな人にすることを目的としているのではない。というのは、ひとつには”ノーマルシイ(normalcy)という言葉はどこにもつかっていないし、また精神遅滞者は、いわゆるノーマルでないいくつかの側面をもつグループとして定義される、ということを認めなければならない。目標とされているのは”ノーマルシイ(normalcy)”ではなく”ノーマリゼーション(normalization)”なのである。ノーマリゼーションとは精神遅滞者をその障害とともに(障害があっても)受容することであり、彼らにノーマルな生活条件を提供することである。すなわち、最大限に発達できるようにするという目的のために、障害者個人のニードに合わせた処遇、教育、訓練を含めて、他の市民に支えられているのと同じ条件を彼らに提供することを意味している。(p.146)
(ここでは、「精神遅滞者」と限定されて述べられていますが、これはバンク-ミケルセンが当時精神遅滞者の処遇に関する省庁の部局で働いていたために、この論文では対象として「精神遅滞者」を主眼に置いていたためです。
今日では障がいを持つ人に限らず「ノーマリゼーション」という考え方が子供から老人までをも広く対象とした、一種の人権概念としてまでの広がりをもって考えられているように、それは当時からバンク-ミケルセンの考えの中で一貫して変わっていないと言ってよいと思われます)
ここでバンク-ミケルセンは、”ノーマル”ということを、「そうでない人を健常化すること」と「通常の生活がおくれること」の差異を明確にしようと仕向けています。
その人の個性が他者(社会の構成員のマジョリティを指す他者)と同じでなくてもそれを受け入れましょうよ、というところから出発しているわけですね。
しかし、人々はマジョリティと同じでない人に対しては、差別化、区別化をはかってしまいます。ノーマルになってマジョリティと同じになってから、こちらの社会に入ってきて下さいねという見方をついついしてしまうのです。
だからこそ、ノーマリゼーションという考え方は、「ノーマルにすること」と違うものであるということを明確にして理解されなければならないことなのです。
saraさんのおっしゃるように「ノーマルシー」というのは、あまり馴染みがなく現在はわかりにくい概念です。そして広く知られていません。
だからこそ、僕も今回のようにノーマリゼーションの正しい認識というものを述べなくてはならないと考えたわけです。
現場で関わる人がこのことを適切に理解したとすれば、すぐ次の日からでも対応を考えるヒントになってくれるものではないかと思います。
>日本語ウィキに、ノーマリゼーションはわかりにくいので、等生化 としたらという提案がある、と書かれてますが、
この”ノーマリゼーション”という概念がおおやけに世に出たのは、デンマークの「1959年法」と呼ばれる、福祉政策に関する法律の中でです。
この法律を作るに当たって、その名称についてもさまざまな議論が重ねられました。
その中で、ヒューマニゼーション(humanization)、ヒューマン・リレーション(human relation)、イクォーライゼーション(equalization)なども候補に挙がります。
「等生化」というのは、ここにある、イクォーライゼーション(equalization)が近いのだと思われます。
確かに、バンク-ミケルセン自身「ノーマリゼーションとはイクォーライゼーションである」と述べています。
しかし、それらも勘案した上で「ノーマリゼーション」という語を選定しています。これは、バンク-ミケルセンひとりの考えだけでなく、当時の障がいを持つ人々の「親の会」の意見も踏まえてのことです。
僕が感じるに、「等しい」ということは一要素ではあるけれども、それだけではこの概念のすべてを表すには足りないからではないでしょうか。
また例えば、「等しい」ということをsaraさんがノーマリゼーションの間違った理解の仕方のところで引用した
>b) 人を社会や学校に支援なしで放出することをノーマリゼーションは擁護する
の意味合いで解釈してしまう人なども無いとは言えないとも考えられます。
また、「等しくする」ということは、前提として差異があるということを踏まえて出てくる概念でもありますので、そこもこの問題の全体像を考える際にはふさわしくないとも思われます。
現代的な感覚では「等生化」ということでも無理なく理解はできるかもしれませんが、かつての福祉政策や医療がどのようであったか、社会的的にどのように扱われていたかといった歴史的な経緯なども踏まえて考えると、やはり「等生化」という語では不十分ではないかと僕は感じます。
バンク-ミケルセンがノーマリゼーションの考え方の中でとくに重要であるとしているのが「連帯」ということです。
人々が社会の中で互いにコミットしていくことが必要不可欠なのであって、単に扱いが等しくなってだけではこの問題は終わらないことなのだと思います。
なにか参考になる図書があればとのご質問がありました。
参考文献にあげた
『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク‐ミケルセン―その生涯と思想』
これは読みやすく、ノーマリゼーションの原点を理解するのにとてもよいものでした。
バンク-ミケルセンがガンで余命幾ばくもないことを知りながら最後に尽力したのが、日本人に向けてノーマリゼーションを伝えることであったということなどこの本を読まなければ知らなかったことでしょう。書いているのは大学の教授ですが学問分野に限定せず、広くノーマリゼーションを伝えようとしている良書だと思います。
あと、福祉関係の本というのは山ほどありますので、僕が挙げるまでも無いかと思います。
なので、ちょっと福祉やノーマリゼーションそのものではないのですが、
『北欧 考える旅―福祉・教育・障害者・人生 著 薗部 英夫 』
これなどは本当に考えさせてくれる本です。
| 2014-10-30 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
相談 長女の姿が気になる(5歳) - 2014.10.28 Tue
長女5歳(年中)と次女2歳の姉妹の母です。いつも相談することは長女のことばかりで、次女には自分らしく自信を持って子育てできているなと感じるのですが、長女のことはどうにも「どうして?」「こんなにやっているのになんで?」と思ってしまうことばかりで、母親としても心苦しさがあります。
相談したいことは2点で、一つは上でコメントされているゆきえさんとたまたま似たような状態のことです。それともう一つ。長女がとても心配性なことです。
具体的にですが、一つ目の点ですが、なんでも自分が先にやってほしい、人よりも多くもらえないといやだ、お友達の持っているものややっていることをうらやましがる(お友達に気づくまでは本人が自分で決めたり満足してやっていたりしていたのに、お友達が目に入ると急に自分のやっていることや持っているものに不満そうにする)などなど・・・
気になるのは、すごく他人の目を気にしているように感じる点です。私は「自分が満足して楽しければそれでいいでしょ?」とよく長女に言うのですが、どうにも本人はそれまでそれなりに楽しくやっていたり満足して遊んだりもっていたりしても、すぐに人と(特に次女やお友達)比べて自分はやってもらってない、○○ちゃんより少ないと不満そうにし始めます。こちらとしては「それ自分でえらんだでしょ?」「さっきまであんなに満足してたのにどうしてすぐに不満がるの?」と思います。長女が文句を言っても、新しく買ったりはしませんし、次女にやってあげたことをやってほしいなど言うときはこちらが気持ちよくできるときは同じようにしてあげたりしますが、あまりに人と比べるときは「○○(長女)が本当にやりたいわけではないとママは思うからやりません。」とつっぱねます。
ただ、気持ちの切り替えが上手くなく、楽しいことはすぐに忘れてもいやなことや怒られたこと、やりたかったのにやらせてもらえなかったなどの気持ちを本当に長々と後まで引きずり、溜め込むタイプなのも私から見るとすごくイライラしてしまい、こちらも怒ってしまいます。次女が長女とは逆に天真爛漫といいますか、ポジティブで素直ですが、次女が生まれるまでの3年間今までずっと100%長女のために愛情を注いできたのにどうして満足してくれないのだろうと落ち込んだりもします。
二つ目ですが、そんなネガティブ長女のためか些細なことでおろおろしたり泣いたりします。本人曰く、心配なんだそうですが、例えば、うちではテレビは子どもたちが見たいものがあるときに録画してあるものをどれか自分たちで選んで見せていますが(テレビはつけっぱなしではありません)、その際見終わった後撃ちのテレビは録画リストみたいなものに自動で画面が切り替わるのですが、手が離せなくてしばらくそのままにしておくと泣きながら「早く消さないと!終わったよ~早く消してよ!」といいます。また、次女がリモコンに触るだけでおろおろして泣いたり、以前までは次女が触るといけないからと少しでもリモコン類がテーブルの上にあると泣きながらテーブルの引き出しに閉まったり、ひどいときには私や夫が使っているのを横でそわそわしながら見ていて、テーブルに置いたとたんそそくさとしまったりしていました。
他にも、次女はいまだに夜鳴きがあり、アトピーもあるので体がかゆくて起きてしまうのもあるのですが、そのため3日に1回は私も夜中の2時くらいから一睡も寝られないことがあります。そのときなど、次女があまりに大声で泣いて「背中掻いて~」と叫んでいるので長女も起きてしまうのですが、私も普段の寝不足でイライラしているのと次女もかきむしって余計にかゆくなってしまうのでそれをとめようと「そんなに掻いたら血でちゃうよ」と強く言ってしまったり、次女が泣きながら夜中に抱っこしてやあっち(リビング)行くなどわめいているので安心させようといろいろと優しく声をかけたりとんとんしたりするのですがこちらも疲れて少しほうっておこうとすると、長女がしくしく泣きはじめて「○○ちゃんひとりで寝られないからとんとんしてあげて~」といって逆に長女の泣き声で次女が眠れないこともあります。
親としては、いろんなことに心配している姿を見て気の毒に感じるのと同時に、長女が心配し始めたときは「大丈夫だよ」と落着かせようとするのですが、一つ目の所でも書きましたが、後に引きずるタイプなのであまりにしつこすぎてこちらが「いい加減にしてよ」となってしまいます。どこまで付き合ったらいいのか、あまりにしつこいときもじっと耐えて安心するまでフォローしたほうがいいのかがわからないのです。
長女は赤ちゃんのときからよく泣き、神経質で、私が見えなくなると来るまでなき続け、急いで抱っこしても今度は「何で早く来なかったんだ」といわんばかりにさらに泣き続けるというような子でした。それでもいつかは安心してくれるだろうと思い、付き合えることは何でも付き合ったし、家事以外のときはほとんど長女と遊んであげたりしましたが、一人で遊ぶことが苦手なようで(今でもすぐに遊んで~といいますし、おもちゃでひとりでじっくり遊べません)どれだけ一緒にやっても満足してくれたと感じたことはあまりありません。
今も時間のあるときは一緒に遊んだり、抱きしめたり、こちらがあまり一緒に遊びたくないときはそばで見ていてあげたり、一緒に料理をしたり、手伝ってもらったりと、正直次女よりも長女に対しての方がより気にかけているような状況です。次女には文句なしに心からかわいいと思えるので、あまり気にしなくても次女との関わりは持てていると思います。
私自身が保育士だったのですが、どうにも自分の子どもとなると力が入ってしまうのか、小さいときから食事やその他生活面では厳しく言ったりさせたりすることが多く、できない姿を受け止めることができませんでした。そのための満たされなさもあるのだろうと思います。性格も実は私の短所がそのまま似ているところも見ていてどうしても割り切れないこともあり、私自身が母からできないこと、ダメなことを受け止めてもらえなったことで私自身自己肯定感が低く、そんな姿を長女に見てしまうと自分のダメなところと同じだから直さなければと身構えてしまって後でいけないいけないと訂正したりします。
次女に対しては、それなりに大変さはあるけれども悩みというものを感じないのはきっと次女のもって生まれた明るさと私とは性格がよい意味で似ていないことにあると思います。
長女にも本当は細かいことに心配したり、周りを気にしたりすることなくのびのびと彼女らしく楽しく毎日を過ごしてほしいと心から思っています。私自身も心配性で、いろいろなことに心をすり減らしてとても苦しくつらくなってしまうのがよくわかります。毎日が不満と心配事だらけで長女の一日一日が終わっていってしまっているのではないかととても不安です。
親の目から見ても、長女はすごく本当は感激屋さんで心優しい子だと思います。次女が怒られているとなぜか自分も一緒に泣いてしまったり、歯磨きや手洗いなど次女の分までやってくれたり、テレビでたまたまやっていたちょっとかわいそうなシーンをみて「この子かわいそう」といって一緒に泣いたり・・・自分から「ありがとう」「ごめんなさい」が言えるのもすばらしいとおもいます。
素敵な姿がたくさんあるのに、すぐに不満そうにしたり文句をいったりする姿を見ると自分のいやなところを鏡で見ているようで受け入れられなくなります。
まとまらない文章で申し訳ありませんが、以上二点について、乳児期とはまた違って5歳なので関わり方などでアドバイスしていただけると嬉しいです。
>性格も実は私の短所がそのまま似ているところも見ていてどうしても割り切れないこともあり、私自身が母からできないこと、ダメなことを受け止めてもらえなったことで私自身自己肯定感が低く、そんな姿を長女に見てしまうと自分のダメなところと同じだから直さなければと身構えてしまって後でいけないいけないと訂正したりします。
ここからではないかなと思います。
ここからというのは、ほわほわさんありのままの自身が自分を認めるところからスタートしてみるといいのではないかなということです。
よほど自分に自信のある人やナルシストな人でない限り、たいていの人は自己嫌悪するところを持っていて、それでもなんとか折り合いをつけながら生活していっています。
それをもう一歩進めて、
「自分にはたくさんの欠点もあるし、嫌いなところもある、それでもこれが自分のありのままなのだから、まあいいじゃないか」と受け入れてしまうわけです。
「自分のダメなところ」があっても、それでもこうして今があるのだからいいじゃないかという気持ちにたって、自分自身を許してしまうところから考えてみて、その次に娘さんのことを考えてみます。
確かに欠点だと思えるところもあることでしょう。
みなどんな人も欠点や良くないところを持っているわけです。
でも、ダメなところがあるからといって、それでそのまま人生すべてがダメになるわけではありません。
ましてやまだまだこれから成長の余地がたくさんある子供のことなのです。
いま欠点に見えることなどなにほどのものでもありはしません。
そこに立って、娘さんのありのままを「ああ、この子の育ちというのはこういうものなのだな」と受け入れたところから、関わりを模索してみます。
母親がそう思えると、子供はとても楽になります。
見た目で何も変わらなくても子供はそういうことを敏感に察知するものです。
そこからゆっくりプラスになるものを積み重ねていけばそれでいいでしょう。
「言葉」をもっと使うといいと思います。
思ったことを思っただけで終わりにするのではなく、言葉に出してみます。
「今日はこのまえよりもお野菜をたくさん食べてくれたわね」
「いい笑顔でわらっているね」
「そういう優しいところとてもいいと思うわ」
もっと褒めるようにしなさいという意味だけではないのです。
関心と心が向けられていることが伝わることで、安心感を持たせてあげることができるからです。
ときには、「そういうのは好きじゃないな」というようなことを口にしてもいいかもしれません。
そういった大人の方の心のあり方を子供が知ることで、子供が感じている「どう自分を出していいかわからないという混乱」を少なくすることができるでしょう。
保育士や教師は「できること」「させること」というスキルを持ってしまっています。それがときに自分の子育ての場面では、返って重石になってしまうことがあります。
最終的にそういう方向性の関わりは、子供の心に「私は何点足りないと思われている」と感じさせてしまうからです。
過去記事の『減点法の子育て』で書いたようなことですね。
敏感な子はそれを大きく感じ取って自然なありのままを出すことを躊躇してしまいます。
また、娘さんはもしかすると発達障がいとまではいかなくても、過敏な傾向というのを持っている子なのかもしれません。
>手が離せなくてしばらくそのままにしておくと泣きながら「早く消さないと!終わったよ~早く消してよ!」といいます。また、次女がリモコンに触るだけでおろおろして泣いたり、以前までは次女が触るといけないからと少しでもリモコン類がテーブルの上にあると泣きながらテーブルの引き出しに閉まったり、ひどいときには私や夫が使っているのを横でそわそわしながら見ていて、テーブルに置いたとたんそそくさとしまったりしていました。
こういう部分ですね。
そういった性質を持った子にはそれに合わせた見方をしてあげないと、子供自身がいろいろ苦労してしまいます。
このことはちょっとした関わり方のコツをつかんでいると、スムーズに対応でき、なんでもないものとなることもあります。
発達障がいやアスペルガー症候群の子でなくとも以下の本は関わりの参考になることがたくさんあります。
もしかすると娘さんの対応の難しい姿に対してのヒントになるものが見つかるかもしれません。
| 2014-10-28 | 相談 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.2 - 2014.10.27 Mon
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どうぞよろしくお願いいたします。
前回の続きです。
要支援児への援助をする際は大人の方の意識というものがまず大切ということを前回はお話しました。
この点について、『小論文 保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義』で述べたような、ノーマルシーとノーマリゼーションの混同、誤解というものがあると容易にその援助すべき子への対応はおかしなものとなってしまいます。
リハビリや発達支援施設のような、要支援児個人に対して”訓練”を目的とした施設であれば、ノーマルシーを第一に考えてもよいのでしょう。
しかし、保育園・学校というのは要支援児への訓練を第一に目的とされているところではありませんね。
まず、その子の日常・生活の一部としての社会であり集団があるわけです。
たしかに、子供の成長・発達を願うことが悪いわけではありません。
ですが、それは「こころよく過ごせる日常・生活としての場」という保育園・学校が機能してから、その結果として得られる余得としてでいいのです。
最初にするべきことを設定した「指導」という視点だけでは、子供そのものが見えなくなってしまうということがあるというのは、
『小論文 「指導」の視点と「援助」の視点 -教育現場における障がい児援助の課題-』
こちらで述べたとおりです。
「できない」「やりたくない」そういった通常「指導」の中では許容されないこともおおらかに受け止める度量がなければ、障がいやハンデを持った要支援児に対しての関わりは、「それではいけない」というたくさんの否定の見方で埋め尽くされてしまいます。
そのために必要なのは、理解と尊重です。
僕の知人でこのような人がいました。
その人はちょっと珍しい食物アレルギーを持っていて、それを食べると呼吸困難になってしまいます。
小学生の頃は、担任が代わるたびに無理やり食べさせられてそのたびに、そのアレルギー発作で倒れていたということです。
つまり、指導する側である教師は「食べられるべき」ということを、その子その子のことへの理解と尊重の前に置いて、その指導者側の観点を押しつけることをしてしまっています。
個々の理解と尊重よりも、大人個人の論理を優先させてしまっているがゆえに不適切なことが行われてしまっているわけです。
アレルギーに関しては昨今たいへん厳しい見方になり、死亡事故なども複数あった結果いまではこういうことはなくなっていると思われますが、そういった事故にならないまでも、要支援児への対応のなかでは指導する側の論理で個性の尊重を損なうということが日常茶飯事におこってしまっています。
たとえば、自閉的傾向を持つ子供では、普通からは考えつかないような理由からそのものごとができなくなったりします。
その理由を伝えられてすら、そんなのはおかしいと大人から尊重してもらえないことが多々あります。
合奏の練習をするときに、「トライアングルの持ち手のひもの色がいつもと違った」、「いつもとなりの立ち位置のはずの〇〇君がお休みでいなかった」そんな通常では些細なと思われるような理由でも、その子にとっては大問題であったりするわけです。
こういったことに対して、その援助者である大人が理解を示せずに否定的な見方をしてしまったら、その子はそこで疎外感や自己否定感を高められてしまいます。
大人は自分の論理を押しつけるのではなく、どんなに納得がいかないようなことであってすら、その子のあるがままの姿を客観視してそのうえで個々に合わせた対応を模索する必要があります。
この大人側の「理解と尊重」の視点が要支援児への援助の中では、第一に必要です。
大人がこの理解と尊重をしていなければ、周りの子供にも多様な個性の子供に対して「理解を示しなさい」というようなアプローチができるわけもないのです。
その合奏の場面で、その子にそれでも強要して練習に参加させることはできるかもしれません。けれども、自分を否定されたという強烈な疎外感や自己否定感を子供の心に形成してまで、その合奏ができたところでその子の育ちにはなにほどのプラスもないのです。あるのは指導者側の「やるべきことをやらせた」という自己満足ばかりです。
子供によっては、そこでパニックを起こしてその場から逃げ出したり、持っていた楽器を投げつけたりするかもしれません。
それでは周囲の子供にもその子に対する垣根を作らせてしまいます。
理解し、尊重し、その子ができることやできないこともあるというのを大人がありのままに受け入れながら、それでもこの属する集団の一員であるという姿勢を示すことが集団の子供にもその子への理解を生み出します。
ノーマリゼーションのひとつの到達点に達していたと僕が見たクラスの事例です。
自閉的傾向を持っていた男の子、発語はほとんどない。やや他動的傾向があった。仮にA君とします。
3歳児クラスのとき、担任の保育士たちは熱心ではあったが「するべきことをさせる」というノーマルシーとしての関わりで考えてしまっていた。
その結果、できないこと、しようとしないことを繰り返し迫ってやらせようとしたり、自ままに動くことを制限することで、するべきこと(集団で今していることなど)をさせようとするアプローチが大変多くなってしまっていた。
そのときのクラス担任たちは、A君は他動だから手がかかって大変であるということを期の反省などではしきりに述べていた。またそれゆえ人手が必要なことも強調していた。
午前中のみ障がい児支援の補助職員(Cさん)が1名ついていたが、担任の意を受けて、クラスから出て行ってしまうA君を連れ戻したり、集団での行動から逸脱してしまうA君を押さえるような対応をさせていた。
4歳児クラスになり、新たにB保育士がそのクラスの担任になりさらにクラスリーダーとなった。
このB保育士は、A君になんらかの「できる」を獲得させることではなく、A君が自分らしく居心地のよい環境であることを第一にアプローチをしていった。
まず、さまざまな強要をやめ、できる範囲でA君が自分から好んでできることをさせてあげられるような環境や時間配分を整えていった。
集団での活動なども「〇〇ができること」を目標にするのではなく、「A君なりに活動に参加できること」を目標として、A君なりの関わり方でできればよいという視点で受け入れていった。
補助職員のCさんは前年からそのままA君に、限られた時間だが補助としてつけることになった。
B保育士はこのCさんをA君の自ままな行動を押さえつけるために用いることは、せっかくの個別対応として無駄であると考え、そのような個別の対応のできる人員がいるのだから、それを適切に活用してA君が好んでしたいことにつきあっていく方向でCさんには動いてもらうこととした。また、CさんとA君の信頼関係が厚くなるように配慮をした。
(その配慮とは、例えば注意や制止をしなければならない場面ではB保育士がそれを行い、CさんはA君に対して許容・受容を旨として関わってもらうといったようなこと)
また、B保育士は周りの子供にもA君がどういう状況にあるのかということを、理解できるかたちで伝えていくことを重視した。
一例としては、「子供の中にはなにか大事なものを赤ちゃんのときにお母さんの中に置いてきてしまう子もいるんだよ。A君は友達と言葉でお話しする力を置いてきてしまったから、いま少しずつそれを身につけているんだよ」というように伝えていた。B保育士自身はこのような伝え方が正しいかどうかはわからないけれども、いろいろな伝え方を模索していて今のところこのように伝えることが幼児には理解しやすいと感じていると話していた。
そういった大人の側のA君への理解、受容、あるがままを認めるという行為が、だんだんと子供にも伝わっていき、それまであまりA君に積極的に関わっていなかったクラスの子供たちも、A君を手伝ってあげたり、A君をままごとに入れて一緒に遊んだりする姿が多くなっていった。
しばらくするとA君の行動というのは大きく変わっていった。
まず、3歳児クラスのときは「他動で勝手に部屋から出て行ってしまうことが多く大変だ」と言われていた行動が、4歳児クラスではほとんどなくなる。
このことは年齢が進んでの成長ということも考えられなくはないが、1年たったというわけでなくクラスが変わって2ヶ月ほどでの変化であるので、やはりアプローチによる違いと考えたほうが妥当だと思われる。
実は3歳児クラスのときの「他動だから」と言われていた行動は、大人が行動を押さえつけたり、否定的な関わり方をしていたり、クラスの中がA君にとって心地よく過ごせる場、そこにいる大人が信頼してついていくべき存在と思われていなかったために、むしろ大人が作り出してしまっていた姿に過ぎなかったのではないかと考えられる。
4歳児クラスになってA君がしたい行動などをむしろ許容した姿勢をとったにもかかわらず、A君の自ままと思われていた行動は減り、集団での行動の際もむしろ参加しようという意欲を見せるようになっていた。
この4歳児クラスがA君の居場所であり、属する集団であるという意識がA君の中で無理なく芽生えたために、やらされてやるのではなくA君の自分の力として参加することができるようになった。
また、それができるようになったことには、大人の方の意識、大人との信頼関係、大人に受け入れられているという関わりによる部分も大きいだろうと思われる。
CさんもA君の目に見える成長(それまでなかった力が育ってきたわけではないので、本当は”変化”にすぎない)に驚いていたし、日々の関わりがそれまでは大変さばかりであったものが、A君と関わることが楽しくなったと話していた。
こういったことがあって、ことさら「〇〇できる」をA君に課しているわけではないのだが、A君の自主的な意欲やその環境からつくられる安定した生活・情緒が結果的にはA君に大きな成長をもたらした。
発語はなくても、他児と遊んだりするなかで子供同士意識を通じさせたり、周りの子供が気にかけてくれる、A君の意図を汲み取ろうとしてくれることから、A君もクラスの子供たちには抵抗なく関わる姿が見られるようになった。
3歳クラスのときは外遊びでも、個別にA君に大人がついていても規制などをするばかりで単に隔離的な対応になってしまっていた。
4歳児クラスになってからは散歩や戸外遊びでもことさら大人がA君を追いかけ回して、危険な行為をさせまいと規制をする必要もなく、A君自身遊べていたし、周囲の子供たちもいつでもA君のことを気遣ってくれるようになっていた。
すべては書ききれきませんが、以上がノーマリゼーションがうまく実現していた保育の一例です。
長くなったので次回につづきます。
| 2014-10-27 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.1 - 2014.10.25 Sat
ちょっと専門的な内容かとは思いましたが、一般の方にも広く関心を持ってもらえたことはとてもうれしいです。
早速いくつか研修等で使用したいというお申し出もいただきました。
もちろん自由に使って頂いてかまいません。その際、一応このブログからという出典の明記をお願いします。
少しでも多くの子供の健全育成のために役立ってくれれば、これにすぐる喜びはありません。
もし、どのような取り組みに利用したということを簡単にでも報告していただけましたら、僕の方としても大変参考になります。
どうか皆々様のご活躍を祈念いたします。
今回は、ノーマリゼーションの実践の実例のお話です。
子供の人権について理解して、なおかつそれを踏まえて子供への関わりの中で実践できている人や、ノーマリゼーションや多様な個性の子供を受け入れることについて理解し、さらにそれを実地にも行える人というのはそう多くはありません。(僕の知っている限りでは、理屈や言葉で知っている人はたくさんいます。しかしそれを本当に自分のものとして身につけて、実践できる人はとても少ないです。それを他者に伝えたり教えることのできる人はさらに少ないです。特に保育士は研究発表などする機会もほとんどないですから、その人固有の職人芸的なものとして埋もれていってしまいがちです)
これらは経験も知識も問題意識も豊富に必要で、確かに簡単なことではないからです。
ですので、現場の人間もこういったことの成功例というのをあまり目にすることができません。
また、目にしたとしても、それがその養育者の手腕によるものだということがなかなか理解されません。たまたまそこの子供たちが「良くできた子だったのだ」というように見られてしまうことも多いからです。問題意識が低ければ、そこでの取り組みを観察し評価し、自分のものとする視点も少ないですからそれは余計にそうなってしまいます。
僕自身も、こういったノーマリゼーションのひとつの到達点に達していると見えた例はそう多くはありません。
障がい児援助の研修などでも、こういた実例の事例研究などあまりされているようには感じません。
本当にこのノーマリゼーションの実践というのは、海のものとも山のものともわからない状態で扱われているのが現状だと思います。
成功例も、実践方法もまだ全然確立していない状況にあると言っていいのではないでしょうか。
そういうわけですから、僕自身障がい児援助の専門家ではありませんが数少ない成功例を目にしてきた経験というものをここで述べることで、今後の展開の助けになればよいかと思います。
いまノーマリゼーションの成功例・到達点と言ったことはこのようなことです。
障がいやハンディキャップを持った子供もしっかりと加わった状態でその集団が構成されていると、その集団の中で自然に助け合ったり、それらの子の参加を前提とした状態で遊びや活動を展開したりすることを、子供たちが自発的に行っていくということです。
このことは、ノーマリゼーション導入の頃も、今でもフレーズとしてはよく言われるところです。
「障がいを持った子供もいるところで育つことで、その子もそういう子を差別することのない人に育っていくわよね」
などと、一般の人にも多く語られています。
しかし、実際はそんな簡単なことではありません。
ただ、同じ集団に子供たちを放り込むだけで自然とそのような状況や育ちが達成されるわけではないのです。
それができるかどうかというのは、ひとえにそこの保育者・養育者の姿勢や実際の関わり方、また全体を視野に入れた取り組みにかかってきます。
例えば、ある子が「大人の言うことを聞かないから」という大人の方の先入観で、強引にやらされていたり、普段から叱咤されてい様子を周囲の子供が見ていると、子供たちはその子のことを大人にそのように扱われるべき存在なのだ、そうされてもしょうがないのだと自然と理解していくことになります。
周りの子供自身も、そこでのその子への大人の養育姿勢を見せつけられることによってむしろ垣根を作ってしまうのです。
このことは、大人の具体的なアプローチだけでなく、大人がその子にたいする心情、態度、それこそ声のかけ方、声のトーン、表情なども如実に周りの子供に影響していきます。
例えば、コメントの中で保育士が障がいを持っている子に対して「今日も本当に戦い疲れたわ」ということがあったというものがありましたが、
大人の方が、そういった意識(支援するべき子供をなんとか屈服させて言うことを聞かせる)でいれば、まわりの子供も大人の顔や態度、言葉から必ずそれらを感じ取ります。
そのようになると、その周囲の子供たちは「自分たちとは違う存在」、「大人が対抗している存在」であると認識するようになります。それでは、世間で言われるところの
>障がいを持った子供もいるところで育つことで、その子もそういう子を差別することのない人に育っていく
ということにはならないわけです。
差別などはしないまでも、ゆるやかに遠巻きに見守る程度にしかなりません。
このような状態ではとうていノーマリゼーションが達成されているとは言えないわけです。
このことはつまり、要支援の子への対応の如何は、周囲にいる子供たちへの心の成長にも密接に関わっていると言うことを意味します。
すなわち、障がいやハンデを持っている子供だけがこの問題の当事者ではないのです。
まずもって、大人の方が子供を、できる子できない子で「一級市民・二級市民」というような見方・扱いをしていてはならないわけです。
そこにいる大人自身が、その子が当然いるべき存在というようにとらえていなければ、集団の子供がそのような意識を持てるはずもないのです。
そういった、集団全体における影響までも視野において、要支援児への援助を考えられる人はどれほどいるでしょうか。この点現場の人たちの意識はまだまだです。
これら援助する側の大人の意識の問題というのは、方法論だけを「こういうときはこれこれこういう対応をしなさい」といったものを研修で身につけても、それだけでは少しも進歩しません。
方法論は、意識や目的論次第でどのようにも変質したりねじ曲がってしまいます。
この点、最初の方の小論文で、指導から援助への視点を持たなければならないと述べたことと密接な関係があります。
大人の意図する目的が、「〇〇すべき」「〇〇させる」ということなっていたら、その同じ方法論で生かすものも殺してしまえるからです。
要支援児への対応では、単なる方法論だけ準備すればいいのではなくて、そこでの大人の意識自体もつねに高めていかなければその実践はおぼつきません。
要支援の子供に対して、「個別対応」の名を借りた「隔離対応」になってしまっているところは実に多いです。
必要に応じて大人が手をかけてあげることはとても大事です。
でも、それだけでは不十分です。
要支援児が集団のなかに入るということは、個々に合わせてその集団としての意義を模索しなければならないことです。
実際現場の人が個別対応をしていると「私はこの子にいっぱい手をかけている」「私は一生懸命やっている」という意識に簡単になってしまいます。
保育者・養育者がその意識でいると、しばしば本当の「その子のための援助」というものが見えなくなってしまいます。
要支援児への対応において、現状上記のようになってしまっているところは実に多いことでしょう。
そしてその多くは、それがまだ不十分な状態であることや、不適切なことをしていること自体に気づかないまま、その対応を長年にわたって複数の子供に対して行ってきてしまっています。
対応がうまくはないとしても、「うーん、これではいかんかな?」と思いながらやっているところの方がまだいいのです。
子供への対応は、「長年これでやってきてうまくいっているのだから、私たちは間違っていない」という意識でいるところが一番怖いです。
ですから、子供に関わる仕事をしている人はアンテナを高くしている必要があります。
つづく。
| 2014-10-25 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
二つの論文について - 2014.10.23 Thu
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お手数をかけて申し訳ありませんが、本分下部の”ブログ拍手”のところからですと、公開設定で「公開しない」を選べますのでそちらにメールアドレスでも記載いただけばこちらよりご連絡いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
最近僕のライフはがりがりと削られています。
自分の力のなさゆえに、手をさしのべるべき子供たちを救えないと感じるためです。
先日、娘の幼稚園の園長、副園長に面談を申し入れて話を聞いていただきました。
別件もあったのですが、これまで障がいや発達に問題を抱えている子供たちへの対応で、あまりに不適切な点を多々目にしていたからです。
あまりそういった指摘を外部からされることを先生たちは好まないということも知っていますし、保護者の立場ですので娘への不利益も考えないではありませんし、また自分の保育へ見方が職業柄やや厳しくなっていることも自覚していますから、もしかすると気にしすぎということもあるかとも思い、ずいぶんと自重していました。
しかし、周りの保護者からもああいう扱いでいいのだろうかと感じている人がいることがわかって、しかしながら幼稚園側にそういった自覚は持っていないということも感じるので、その子供たちのためにもクレーマーと思われようとも言うべきことは伝えておこうと思い立ちました。
以前に、
『保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.5 要支援児への援助』
この記事での事例は娘の幼稚園のことではありませんが、こちらの記事で述べたようなことを伝えたわけです。
具体的には嫌がっている子をはがいじめして引きずったり、日常的に手首をつかんで引っ張って行動させていたり、やりたくないという子供の姿に対して複数の大人がよってたかって「やりなさい」というようなアプローチを迫ったり、その子供たちがそこで屈託なく過ごしているのではなく、押さえつけられながら不満そうに過ごしている表情などを見てきました。
この記事はすでに4月24日に書いていますので、半年くらいは様子を見ていたということです。
極力先生方のプライドを傷つけないように、また単なる批判にならないように誠実に伝えたつもりなのですが、結局のところほとんどとりあってもらえませんでした。
話だけでもきちんと聞く姿勢をもって聞くだけでも聞いてくれて、その後に「これこれこういう次第でやっている、行き過ぎに見えた点があれば今後気をつける」なり、聞いた上での反論なりをしてもらえたのならばまだ納得のしようもあるのだけど、話を聞き届ける前から自己弁護のようなことや、ごまかしとも受け取れるようなこと、どこどこの教授や「優秀な」(4回繰り返して頂きました)カウンセラーの先生の指導や研修を受けているというようなこちらの話を牽制するようなことがほとんどだったので、僕の話を理解しようとする姿勢はないのだなぁと徒労感ばかりが募ってしまいました。僕もなにか立派な肩書きがあればもしかすると聞いてくれたのかもしれませんね。
指摘されたことで、次の日から腕を引っ張って誘導することは気をつけようという話になったのか、いつもなら腕を引っ張っている場面でもそれはしなかったのだけど、そのかわりに後ろから抱え上げて”リフト”をして子供を動かすことをするようになっただけだったので、本質的には僕が伝えたことは理解してもらえなかったようです。
それでもまあクレームおやじが見ているからと、外から見えるところだけでも気をつけるようになるだけでもましかなぁと思うようにはしているのですが。
それでも、なんとか理解してもらえないかと、翌日午前中の4時間を費やして
前々回の『「指導」の視点と「援助」の視点 -教育現場における障がい児援助の課題-』を書き上げて参考にしてくださいと副園長にお渡ししたのだけど、2週間後くらいにこちらから「どうでした?」と聞くまで感想も伝えてはもらえませんでした。
それで返ってきたお返事も内容には触れずに、「方法が違うだけで目指すところは一緒ですね」と言われただけで、僕からはその答えは「見るべきものはないので、今後も子供への対応は一切変える必要がないと考えている」というように受け取れました。
それでも、もし園内研修でもするのならばノーマリゼーションの理解について必ず理解の助けになれるようなことをお話しできますと僕の方から申し出て食い下がったのですが、それにたいしてはいまもってなんの返答もありません。
仕方がないので、論述としてまとめて
前回の『保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義』
こちらのかたちで、とりあえずブログにUPしてみました。
このブログはありがたいことに、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校にお勤めの方も読んでくださっていますので、捨てる神あれば拾う神ありでどこかからでも要支援児への対応が前進してくれる助けになってくれればと思います。
閉じた耳にはいくら話しても伝わりません。このことは嫌というほど僕自身も理解しています。こういった施設になんらかのことを指摘しても、伝わる方が少ないということをなんども経験していますし、相談の中でも周りの方からもたくさんの同様の話を聞いています。
公立の幼稚園は時間的な余裕もたくさんあるし、研修などもその他のところよりもはるかに充実しているのだから、もう少し聞く耳を持っているのではないかと期待していたのですが、残念なことにどうもそうではなかったようです。
今回のことを周りの保育士や知り合いの幼稚園教諭などにすると、もっと深刻な事態があることも聞かされました。
保育所や学校というのは、放っておくととても閉鎖的になりやすい施設です。
そこで行っていることを客観視する視点を持っていないと、問題があってすら気づかずに簡単に10年も20年も同じことをし続けていってしまいます。
今回書いた二つの小論文がどこかで少しでも役に立って、子供たちのよりよい育ちに寄与してくれることを願うばかりです。
| 2014-10-23 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 28 | トラックバック : 0 |
小論文 保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義 - 2014.10.22 Wed
◆はじめに
『ノーマリゼーション』(注1)という概念が世に広く知られるようになって久しく経つ。しかし、それの実践という点からは保育・教育現場においてまだその意味合いが正しく理解されてはおらず、単なる聞こえのよい修飾語となっているに過ぎない面がある。
『ノーマリゼーション』の意義を正しく理解することで、子どもへと関わる実践におけるよりよいアプローチをする一助として頂きたくこの小論文をしたためる。
ノーマリゼーションの考え方が導入される以前は、発達に大きな個性を持った子ども、ハンディキャップを負った子どもは、それらが特別な事情を持つということから他の子どもとはその多くを別枠で対応されてきた。
それが個別の事情に合わせた特別手厚い対応であったかというと、必ずしもそのようではなかった。むしろ、一般的な発達具合を持つ子どもと足並みをそろえられないだろうという決めつけとも取れる理由から、隔離的に扱われるという側面も強くあったと言える。
現在はノーマリゼーションの精神から可能な点においては、同一の場での適切なアプローチを模索するところにきている。
しかしながら、その本来のノーマリゼーションの精神が正しく理解されていないために、多くの現場においてそれらの子どもへの不適切な関わりが積み重ねられてしまっている。
多くの現場において、それに従事する人たちはさまざまなアプローチや援助・指導の方法を学び、身につけようとしている。
だが、それらのさまざまな方法論というものも、目指す方向である「ノーマリゼーションの目的」が正しく理解されていなければ、そこでケアを受ける子どもたちの本当の利益とはならず、その従事者たちの自己満足で終わりかねない。
そして、私の知る限りそういったケアを受ける子どもたちの本当の利益とならずに終わってしまっている例は実に多い。
いくら子どもへの関わり方などの方法論の研鑽を重ねようとも、その目的があいまいなままでは十分に適切な援助とはなりえない。
さまざまな現場においてあいまいである『ノーマリゼーション』の目的と意義を正しく理解することで、そこで行われている子どもたちへの援助を適切に行えるように方向修正をしていくことが、多くの実践の場において必要となっている。
<ノーマリゼーションの二つの誤解>
◆当事者側の誤解
日本の社会の底流には、”同質化への志向”、”劣等処遇の思想”というものがあると言える。
周囲の他者と同じであることに安心を見いだし、そこから大きく逸脱しないことを望むという傾向を多くの人が持っている。これが”同質化への志向”である。
”劣等処遇の思想”とは、公費で保護を受ける人の待遇は一般の人よりも一段と低いものでなければならないという考え方である。(注2)
こういった考え方を多くの人が持っているため、『ノーマリゼーション』が導入されて以来、障がいやハンディキャップを持っていても通常の場で通常の処遇を受けることがノーマリゼーションであるという部分がとくに着目され、その現場での実情や、そのハンディキャップを持った当事者の利益であるかどうかに関係なく、通常の場に入るということを目的として一般に理解されてしまった。
”同質化への志向”や”劣等処遇の思想”という世間の見方があることから、それまで障がいやハンディキャップを持っている人たちやその家族は肩身の狭い思いをしていた。
それゆえ、そこでの援助を受ける子どもの最善の利益ということとは関係なく、通常の場に入ることだけが目的とされてしまった一面がある。
このことは小中学校などの義務教育の場でとくに多く見られ、その子どもの発達段階や個性からすべてのカリキュラムを普通学級で行うことがその子どもの利益とならないということが明らかな状況でも、家族が他の一般的な発達度合いを持つ子どもと同様のカリキュラムを求めるといったケースが多数ある。
このようなことが、日本におけるノーマリゼーションの理解のされ方のひとつ目の誤解である。
◆子どもを預かる施設側の誤解
もうひとつの誤解は、学校・保育園といった施設側の誤解である。
ノーマリゼーションの考え方が日本にも広まり、社会的な要請が高まってくるようになり、学校・保育園に対してもその積極的な受け入れを監督官庁から指示されるようになった。それ以前から積極的に受け入れているところもあったが、大きな動きとなったのはやはり、官庁の指導があってからのことであろう。
しかし、その際にその受け入れることの意義や目的までもが適切に浸透されたわけではない。むしろ、それを指示した官庁の側もその本来の意義・目的を正確に認識していたわけでもなさそうである。
「社会的な要請があるので門戸を開きなさい」といった上意下達的なものとして指示され、その実際は各個の現場の自主性に任されたかたちとなった。
現場の側がそこからまず着手したのは、主にそこでのその子どもたちへの実際の関わり方のメソッドである。
「どのように対応していけばよいか」というところに終始して、障がいやハンディキャップを持った子どもを『ノーマリゼーション』として関わっていくことの意義自体は、あまり顧みられることがなかった。
しかし、それゆえにノーマリゼーションの目的自体が誤解されてしまっており、当事者である子どもたちには不適切な関わりが積み重ねられてしまっている現実がある。
その誤解とは、ノーマリゼーションとノーマルシーの混同である。
<ノーマリゼーション(normalization)とノーマルシー(normalcy)の違い>
『ノーマリゼーション』というのは、多様な個性やハンディキャップを持つ人を”ノーマルにする”ことではない。
本来の意義は、そのような個性やハンディキャップがあっても”ノーマルに過ごせる”ことである。
例えば、足が悪く歩行や走ることが困難な人がいたとする。
この人が理学療法によるリハビリに通い歩行を訓練することは身体的にノーマルな状態に近づかせようとすることで、これは『ノーマルシー』である。
このようなノーマルシーの援助も障がいなどの多様な個性やハンディキャップを持つ人にとっては必要な取り組みであり、それはおかしなことではない。
しかし、ノーマリゼーションとして受け入れた学校・保育園などが目指すところは第一義的にはそれではない。
それらの子どもたちを「ノーマルな人と同じになるように訓練しなさい」という要求をされているわけではないのである。
ノーマリゼーションとして求められている第一のことは、それらハンディキャップを持つ人がノーマルに過ごせるように生活条件を整えることなのである。
つまり、目指すべきなのはその子どもが他のノーマルな子どもと同様に振る舞えることではなく、他のノーマルな子どもが感じられるような喜びや楽しみ達成感などを、多様な個性やハンディキャップを持つ子どもも区別なく同様に享受できることなのである。
その子どもが、大人の課した目的を達成できるかどうかとは関係なく、当事者である子どもが自分以外の子どもと同じような満足感をそこで得ることができるのならば、それで第一義的な意味でのノーマリゼーションは達成されるのである。
この子どもにさまざまな教育的・発達的なアプローチをするのは、この前提となるノーマリゼーションが達成された後に考えられるべきことであり、そのノーマリゼーションという個人の尊重・尊厳を制限してまで、それの前に教育・保育目標を置くことは適切ではない。
逆に、いくらその子どもをノーマルな子どもと同じような到達点に近づけたとしても、その本人の意思に反したり、満足感を得られずにそれを行っているのでは、少しもノーマリゼーションは達成されてはいないのである。
ある幼稚園ではこのようなことがあった。
運動会でリレーの競技があった。自閉的な傾向を抱えていたその子は、その競技に参加することに激しい抵抗を感じ、走ることを嫌がり拒否した。
しかし、その担任の教師はその子にリレーに参加することを求め、それでも拒否したために、運動会当日は嫌がるその子を担任教師が小脇に抱え上げてトラックを走りリレーに参加させたのである。
この事例の子どもは、その子の個性や意思を尊重されたと言えるだろうか、明らかに尊重されているとは言えない。
教育や保育目標のためという理由で、教師や保育士はその子の個性を無視してまで、大人の意思を押しつけることはノーマリゼーションの精神の中にはないことである。
この子の個性を尊重し、それを勘案した上でその子どもが他の子どもと同様に運動会を楽しみ、そこに達成感を見いだせるような配慮をすることが、その子どもを受け入れる施設にはノーマリゼーションとして第一義的に求められていることなのである。
<当事者・主体としての子どもという視点を持つこと>
子どもは不適切な関わり方をされても、その大人に対してそのことに直接不平を述べるということができない。障がいや発達に問題を抱えていたりハンディキャップを持つ子であれば、それはなおさらのことである。それゆえ援助する側がされる側の当事者(子ども)への配慮を欠いてしまうと、容易に主客の転倒が起こってしまう。(注3)
教育や養育の主体というのは誰であろうか。それは本来そこでの教育や発達を援助される子どもである。
しかし、援助者である大人がその子ども本人の個性・意思や置かれている状況に鈍感になってしまうと、「する側」(援助者側の大人)の論理ばかりが優先され「支配者」になってしまい、「される側」(当事者である子ども)が「従うべき存在」となってしまう。そのようになれば、その子どもにとっての適切な成長・発達・学習をうながすことよりも、支配する側の思惑を実行させることが目的という状況に容易に変質してしまうだろう。
子どもへの養育・教育というものは、本来その子どもの自己実現を援助するために行われるものである。だからこそ、その過程においてもその子どものあり方を否定した方法で行うべきではないのである。
ノーマリゼーションの提唱者バンク-ミケルセンは、ノーマリゼーションとは本当は難しいものではなく、相手の立場に自分を重ねて自分がされたいと望まないことはしない、そんな当たり前のことなのだと述べている。
◆おわりに
教育や保育の現場で、このようなノーマリゼーションとノーマルシーを誤解したことから、当事者である子どもの尊厳を傷つけてしまうような扱いが今も頻繁に行われている。
ノーマリゼーションとして求められていることをそこに従事する人間は正しく理解していないために、その子どもたちをノーマルに扱うどころか逆に劣等感や疎外感を感じさせるような対応を重ねてしまっている。
しかしながら、そのノーマリゼーションの本来の目的と意義を正しく認識していないそのことが、さらにそこで行っていることを客観視し省みてよりよい援助をする必要があるということ自体に気づけなくしてしまっている。
この点を認識しなければ、今後もこのような対応というものが続いていってしまうことであろう。
あらためて『ノーマリゼーション』の本質を理解することで、すべての子どもに最善の利益を与えられる視点を、子どもに従事する多くの人には理解して頂きたい。
注1 『ノーマリゼーション(normalization)』は、日本では『ノーマライゼーション』とも表記・発音されている。ここでは提唱者であるバンク-ミケルセンの用法にしたがって『ノーマリゼーション』と表記していく
注2 ”劣等処遇の思想”については以下の参考文献『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミケルセン その生涯と思想』より引用した。
注3 このことはその子どもが不満を述べられないということだけでなく、保護者にしても同様の側面がある。保護者によっては「障がいやハンディキャップを持っている子を預かってもらっている」という負い目を感じていることがある。そのような保護者にとっては、納得のいかないこと、不満などがあってもそれを積極的に施設側に述べることを躊躇してしまう。子どもを預かる施設側はそこまで踏まえ、当事者に対する一層十分な配慮を心がける必要がある。
参考文献
「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミケルセン その生涯と思想
花村春樹 訳・著 ミネルヴァ書房
連続授業 命と絆は守れるか? -震災・貧困・自殺からDVまで
宇都宮健児 浅見昇吾 稲葉剛 編 三省堂
ノーマリゼーション(normalization)の原理
N.E.バンク-ミケルセン 中園康夫 訳 四国学院大学 論集42
Sorge(気遣い)とケア論 -ケア論の基礎づけの試み-
小館貴幸 著 立正大学哲学会紀要第3号抜粋 2008年3月
ユネスコ「生命倫理と人権に関する世界宣言」
文部科学省HPより
| 2014-10-22 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
小論文 「指導」の視点と「援助」の視点 -教育現場における障がい児援助の課題- - 2014.10.21 Tue
通常、教育の現場においては「指導」という方法論によって子どもへのアプローチがなされる。
そこで行われる「指導」とは、まず到達すべき目標が設定され、個々の子どもまたは子ども集団がその目標をクリアすることを目指すものである。
その際、その子どもたち全体が均質な能力をもっていると仮定することができるのであれば、最初に決める目標の設定や子どもへの具体的なアプローチを考えることは容易である。しかし、実際には個々の子どもの能力や発達の到達点というのはばらつきがあり、子どもに対する個別的な視点・アプローチというものが要求される。
そして、もっとも個別的な視点・アプローチを要求されるもののひとつが障がいを持った子どもへの対応である。
そこでその子どもに携わる大人も障がいを持つ子どもに対しては、他の一般的な発達の進度を持った子どもと同様の「到達すべき目標」がクリアできないということは理解している。しかし、長年つねに「指導」という方法論によって子どもへの対応考えてきた多くの教育現場においては、障がい児への対応においても「指導」という方法論を用いてしまいがちである。到達すべき目標の設定においては、当然それは一般的な発達進度を持つ子どもよりも低く設定するのだが、それでも「到達すべきなにものか」を設定するという「べき論」でのアプローチとなってしまうことは避けにくい。
その障がいを持った子どもの能力の見積もりが適切で、かつその子どもが情緒や活動に「ムラ」のない子どもであれば、そのような指導によるアプローチというのも比較的たやすいが、障がいを持つ子どもにとって多くの場合そうではない。昨日できたことが今日できるとは限らないし、ある大人との間ではできることが別の大人の前でできるとも限らない。また、周囲の状況やその一日の経過によってある行動ができたり、できなかったりという「ムラ」があることが普通である。
もちろん、指導する大人も多くの場合それは理解していることである。それを踏まえ対応や短期的な目標を修正しつつ関わっていくことだろう。特に個人カリキュラムなどの文書化するような大きな目標においては、それを行うことは難しくない。
しかし、特別意識もしないような日常のこまごまとした子どもへの対応においては、この「指導」という視点だけではさまざまな齟齬を生んでしまう。
「指導」という視点に慣れてしまった大人は、無意識に「〇〇するべき」という意図を持って子どもに接していくことが習慣化してしまいやすい。それが実際にその子が達成できることばかりであれば問題はないが、それができない場合「それができなくてはいけない」「なぜできないのだ」といった否定的な見方や、大人の側の「イライラ」や「困った」という気分的な反応が出てきかねない。障がいを持った子どもの中にはこういった大人の情緒的な反応に敏感な子どもも少なくない。それはその子どもにとって、疎外感や、自己否定感、その大人との信頼関係の低下というものをもたらしてしまう。
またさらに、大人の求める行動ができない場合、さらなる強い関わりをすることによって子どもにさせようとする「〇〇するべき」のアプローチが強化されることもある。具体的には言い聞かせたり、強く言ったり、叱ったり、注意したり、場合によっては子どもに冷淡さを見せることにより疎外感を刺激して大人の思うとおりの行動をさせようとするといった関わりもある。
これらは一般的な発達具合をもった子どもには問題なく有効であっても、発達にハンデキャップを抱えている子にそのまま通じるとは限らない。その場合、引き起こされてしまうのは、その子どもと対応する大人との信頼関係の低下である。
特に、自閉的傾向を持った子どもに対して、信頼関係の低下というのは深刻な問題である。自閉的傾向を持つ子どもは、もともと他者への具体的な関わりを持つことが苦手である。他者に対して積極的な関わりを見せる範囲も、一般的な子どもに比べて著しく狭い。そういった子どもに対して信頼関係を低下させてしまうような関わりの積み重ねというのは、大人からのアプローチを非常に難しくしていってしまう対応である。
一にも二にも信頼関係を構築する関わり・関係性を積み重ねてそれが十分にできてからはじめて「〇〇するべき」的なアプローチが有効になってくる。しかし、注意すべきは一般的な子どもと違い、それが可能なのは信頼関係を十分に築いた特定の相手にまずは限られるという点である。多くの場合、信頼関係を築ける範囲というのは広くない。
職員Aとの間にできたことを、職員Bが「〇〇するべき」という「指導」的なアプローチをしてそれができないからといって、そこで職員Bが信頼関係を低下させるような対応をしてしまったら、職員Aとの間に築いてきた信頼関係も低下していきかねない。この点十分に注意すべきことである。
「指導」という観点からだけで障がいを持つ子どもと関わっていると、結果的にはその子どもを疎外したり、信頼関係を損なう関わりが導き出されやすい。
「〇〇すべきである」という意識が、「〇〇すべきことができない」という子どもの姿に直面すると、その子どもの姿から大人の方にイライラしたり否定的な感情が引き起こされたり、「できないのがよくないのだから」という意識になり無理やり力ずくで子どもを動かしたりという対応となってしまいやすいのである。
大人が物理的な力で子どもに大人の意図する行動をとらせることは、その子どもの心情や意思というものを理解しない・無視するという行為であり、大きな信頼関係の低下を引き起こしてしまう。
手首や二の腕をつかんで大人の意図する方へと引っ張っていくことなど、子どもに対して意識せずにしてしまうことが多いのだが、これは個々の援助者が十分に注意していかなければならない点である。これを普段から当たり前のこととしていては、信頼関係を必要十分なまでに高めてその後にその子の力を引き出していくという段階にはなかなかなり得ない。
◆「指導」から「援助」へ
この点を乗り越えるために必要となってくるのは、「指導」という視点の転換である。そこに代わるものは「援助」という視点になる。
最初に「〇〇すべき」という目標を置いてしまうのではなく、現状のあるがままの子どもの姿をそのまま受け入れ、そこからのアプローチを模索していくのである。「〇〇すべき」の視点を最初から導入してしまうと、そこにはそれが達成されないときの否定的な反応・感情が対応する大人に引き起こされてしまう。
考慮の結果設定するような大きな目標と違って、日常におけるさまざまな「〇〇すべき」は簡単に発達に問題を抱えている子どもの心の中に否定的な対応をされた経験を蓄積させていってしまう。
具体的に見てみる。例えば、大人がその子どもに「朝の準備を自分でするべき」という視点を持っていたとしよう。その子がそれをできてしまえばなにも問題はないが、できなかったとき繰り返し何度も「やりなさい」というアプローチを重ねたり、無意識に怒った感情をのぞかせてしまうかもしれない。またそのように強いアプローチでなくとも、「今日もやっぱりできないわね。はぁ」といった落胆の感情をのぞかせてしまうという場合もあるかもしれない。
そのような反応を子どもは敏感に察知するので、その関わりには信頼関係を損なう積み重ねはあっても、厚くすることは少ない。
「援助」の視点によって、「あるがままを許容する」という大人の姿勢から関わりを模索する場合、この「いまのところできない」もしくは「いまはやりたくない」という子どもの意思をそのまま受け止めることになる。
「いまはできないのだね。では私と一緒にやりましょう」子どもの状況によってはその大人と一緒にするということもできない場合もあるだろう、そういうときは「いまはできないのだね。では、あとでやりましょう」や、「では、私がやっておきましょう」など、そのときそのときの状況や子どもに合わせての対応でいいのである。そこには、その子どもにとって「自分のありのままの姿が受け止めてもらえた」という信頼関係の構築にプラスになる事実が残る。この小さな信頼関係の構築を大切にし、「〇〇できる」などの行動の到達点というものは信頼関係が十分構築されたあとの長期的な目標としていくことが援助の視点においては考えられている。
この際の「いまはできないのだね。では私と一緒にやりましょう」といった関わりは、「指導」という関わりのなかでもでてくるかもしれないが、「できないから仕方がないので、(一緒にやる)」というものとは決定的に違ってくる。「しかたなく許容する」のと「最初から受け入れる姿勢を持って許容する」のでは、それは援助する大人の心の持ち方のなかに大きな違いをもたらすだろう。当然、子どもの心にも違ったかたちで響いていくる。
こういったことを、「それでは子どもに日々の生活の習慣がつかない」というように短絡的に考える必要はない。発達に問題を持った子どもにとっては前述のように、情緒や行動にムラがあったり、ほんの些細な環境の変化などからやりたいと思っていてすらできないことなどが当然あるからである。(例えば朝の家庭での親からの関わりや、慣れない実習生が部屋にいる、普段と物の配置が違う、といった情緒や人的・物的環境の変化など)
また、こういった「日々の習慣」ということであっても、それらを可能にするのはそこにいる大人との信頼関係があってこそのものである。ゆえに優先すべきは短期的な「〇〇できる」ではなく、その子どもがそこにいる援助者を信頼し、その環境で安心して過ごすことができることなのである。
それら大人との信頼関係や安心して過ごせる環境というものがあってはじめて、発達に問題を抱えた子どもへのアプローチというものは可能になってくる。
実は一般的な発達具合を持った子どももこれと同様のプロセスを経てきているのである。ただ、一般的な発達具合を持った子どもは、あらかじめ広汎な大人に対する信頼感や環境に対する順応力というものを備えてきていることが多いので、この意図的に信頼関係を構築するプロセス・安心感を形成するプロセスを省略して、その次の「指導」が可能な段階にきているのである。
この特定の大人とその環境における安心感から子どもの姿・行動が導きだされるというものは、基本的には0~2歳くらいの乳児における留意点と同様のものである。
乳児への関わりにおいては「指導」という視点は少なく、「援助」というものが中心になっている。通常であれば、教育はこういった一定の地歩に到達した子どもに対して行われるので「指導」というひとつの視点からでも、さほど問題なく対応が可能である。
しかし、ここでテーマとした障がい児をはじめ、ADDやADHDなどに代表される発達障がい、またはその傾向のある子ども、いわゆるグレーゾーンと呼ばれる子ども、または家庭での生育歴により一般的な子どもに対するのとは同じようにいかない、対応に個別的な配慮の必要な子どもというのも昨今では大変増えてきている。そこにおいては、「指導」と「援助」というふたつの視点を使い分ける柔軟さが、教育現場においても求められているといえるのではないだろうか。
| 2014-10-21 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
相談 心から楽しく関われない ー「弱さ」を乗り越える- - 2014.10.19 Sun
なにはともあれよかったです。
福田 順 さんわざわざご連絡ありがとうございました。
10月5日 トトロさんの相談コメントへの返信
保育士お父ちゃんさんこんばんは!
最近、初コメントに相談させて頂いたトトロです。
いつも遅い時間にすみません💦
幸せって、保育士お父ちゃんさんみたいに家族と揃ってご飯を食べれる事に幸せを感じられる事が幸せな事なのかなって思ったりします。
最近、息子と過ごす時間に幸せを感じられなくなってきてしまい、まとわりつかれる事にストレスを感じてイライラしてしまいます。
ここにコメントされる方も本当に素敵な子育てしてるなぁと思い、それぞれ悩みはあるものの、自分自身の子育てを見ると必死でいいお母さんしようとしてるだけで内心イライラしていたり、心から笑っていなかったり息子には全部見抜かれているような気がします。
保育士お父ちゃんさんの記事の中にもありましたよね。
いやいや遊んでも満たされるどころか、マイナスな事も頭ではわかっています。
息子のクッキーの入れ物にたくさんクッキーを入ようと接してもこんな感じでは全然貯まるわけない事も…。
いつも息子からこっち見てよ。僕の事もっともっと愛してよ。って気持ちが痛いくらい伝わるのですが、心から楽しく関われなくて辛いです。
原因は、自分の余裕のなさと、育児家事の両立が上手く出来なかったり、疲れやすい体質だったり。あと弱い大人であることも自覚しています。
でもこんなことは息子からしたら、関係のない事ですよね。
私が変わらなければと思っています。
保育士お父ちゃんさん、お忙しいとは思いますがいつでも構わないので、何かアドバイス頂けないでしょうか。
宜しくお願いします。
>でもこんなことは息子からしたら、関係のない事ですよね。
トトロさんがもし、お金をもらって仕事として他人の子を預かっているのでしたら、確かにそれを理由にしてはいけないでしょう。
しかし、そうではありませんね。
ちっとも関係のないことであるわけがありません。
>原因は、自分の余裕のなさと、育児家事の両立が上手く出来なかったり、疲れやすい体質だったり。あと弱い大人であることも自覚しています。
自分のあるがままのことを否定して、そのうえでその自分の否定すべきことを押し殺して子供に関わろうとしても、それは「大人が子供のためにつらさを我慢している」ということであって、とうてい自然な関わりになることはありません。
そのような「無理」を重ねたところにある子育てというのは、必ずどこかで破綻が来ます。
親になったからとっいって子供のためにスーパーマンになることは、もともとスーパーな人にしかできません。
多くの人は、弱さも欠点もありながらなんとか生活しているわけです。
親が自分を否定しながらいい子育てになるというのは大変難しいことです。
どこかの時点で、「自分はこうなんだから」と開き直ったところから、無理のない・嘘のない子育てをしていったほうがいいでしょう。
子供に対して大人が無理を押しながら、子供を王様のようにして子供に仕えるような子育てをしても、健全な育ちにはなりません。
子供が遊んで欲しいとゴネたときに、大人が身体が厳しいのにそれを我慢して相手をしたとします。
どれほど大人が頑張ったつもりでも、そのように大人が自分に嘘をついて無理を重ねて本心を押し殺して子供の相手をしたところで、子供がそれで心から満足するということは決してありません。
だったら、「いまは私は身体がつらいから無理なのよ」ということを子供に理解させて、できるときに適切に相手をしてあげたほうがよほどいいのです。
「弱い大人・強い大人」の意味あいは、自分を押し殺して頑張れない人が「弱い大人」なのではありません。
自分の強さも弱さも子供に対してどうどうと示せない、子供の前で大人としてのあり方を毅然としめせないことが「弱さ」なのです。
>自分の余裕のなさと、育児家事の両立が上手く出来なかったり、疲れやすい体質だったり
これらを堂々と子供に対して開示して、そのうえでトトロさんとしてのできる関わりを子供との間に構築することが「弱さ」を克服するための第一歩となると思いますよ。
| 2014-10-19 | 相談 | Comment : 11 | トラックバック : 1 |
相談 子供の対人関係(4歳11ヶ月) - 2014.10.19 Sun
はじめまして。
4歳11ヶ月と1歳9ヶ月の男の子がいます。
長男のことで相談させてください。
おっとりしていて優しい性格なのですが、言葉が発達していて(ときどきこちらがどきっとすることを言ったり、保育園の先生からも同年齢の子供よりも言葉の理解力があると言われます)、年中さんになった今年くらいからお友達とトラブルになることが出てきました。
トラブルになる理由として保育園の先生から言われたことは、
①お友達と遊んだり、先生のお手伝いをするときに交渉術を使う(○○してあげたからありがとうと言って、今度はぼくに△△してよetc)
↓
②年中さんでは交渉術に対応できない子供の方が多いので、長男と遊ぶと面倒くさいから遊ばない子が出てくる
↓
③長男は悪気があって交渉術を使っていないので状況が理解できておらず、並行遊びはできているので友達はいると思っていて困ってない
↓
④改善されないのでお友達とうまく遊べない
ということのようです。
また、長男が「一緒に遊ぼう」と言っても入れてもらえない場面の多くあるようです。そういうときは「○○が遊ぼうと言っても入れてくれない。いじわるされた」と言います。(親も今まで上記のような状況を把握していなかったので、息子が原因だと思っていませんでした)
「ありがとうと言って」ということについては、あいさつやお礼をちゃんと言える子に育てたいと思い、「ありがとう」と言った方がよいと親が思う場面で、「何て言うの?」と子供に求めていたことが影響しているのかなぁと今は思います。
また、それ以外の交渉術についても、親がご褒美のようなつもりで言っていた「○○できてから△△しようね」というやりとりをまねているのではと思います。
おとーちゃんのいつかのブログにあった過干渉な親と祖父母によって身の回りのことはできないけれど他の子のことは指摘するという公園であった女の子のように育ってしまっているような気がして心配です。
また、嫌なことを自分で解決しようという気持ちがあまりなく、すぐに親や先生に「○○くんが靴を投げた」「△△くんが嫌なことしてきた」と報告に来ます。
年少さんのときにすぐに手が出るお友達に叩かれたりかまれたりしたことがあり、「困ったことがあったら言うんだよ」と言ったとおりにしているのですが、お友達からすぐに告げ口すると言われています。
今後どのように親として子供に接することが、よいのでしょうか?
親が危ないと思う場面で先回りして危険を回避したり、子供を否定しないようにと心がけていたことが過干渉や過保護で、日々の積み重ねにより子供に悪い影響を与えてしまっていたと思っています。
ご意見・アドバイス、よろしくお願いいたします。
いまの姿が過保護・過干渉によるものだとしたら、「どのように子供を改変していくか」というアプローチでは、さらに過保護・過干渉を重ねることになりかねません。
もともと、対人関係というのは基本的に実際の経験の中で身につけていくしかないことです。
ある、うまくない子供の行動に対して、大人が「それはあなたのここがよくないからそうなってしまうのだ、このようにしていきなさい」ということを教え込んだとしたところで、それが身につくものでもありません。
むしろ、大人のその心配が子供の逃げ道となってしまって、自分で乗り越えようとする気持ちを失わせてしまうかもしれないことです。
また、人間関係というのは「なにが正しいなにが正しくない」ということだけで割り切れるものでもありません。
正解を伝え、それを実行させるだけでも円滑にいくわけではありませんね。
対人関係・人間関係というのは、基本は大人は信じて見守るしかないのです。
大人が大きく介入するのは、子供の力ではどうにもならない事態になったとき、なってしまいそうなときだけです。
年中という時期は、人間関係を学びはじめた1年生です。
まだ、完全にうまくできなければならない時期ではありません。
いま、失敗も成功も自分でさせて長い目で身につけさせていけばいいのです。
ましてや家庭内のことではなく、保育園でのことですから、親が直接的にどうこうするという余地はあまりないことです。
よしんば、積極的にどうこうしようとしたところであまり効果はあがらないでしょう。
親ができるのは、基本的な情緒や生活を安定させてあげることと、子供を信じ見守り、自分で乗り越えさせられるように後ろから支えてあげることです。
子供は自分で、自分の関わり方ではうまく関われないこと、友達の反応がよくないことなどを受け止め、自分の心の中で何度も葛藤をすることでよりよい方法を自分で見つけなければなりません。
大人が正解を教えようとすると、自分で葛藤して出した正解ではないので、それが同じものであったとしてもいつまでも身につきはしません。
子供集団というのは、その場にいる保育士のような大人からしても完全にコントロールしきれるものではありません。せいぜい方向の修正をできるくらいのものです。
しかし、集団の力は子供にさまざまな学びを与えます。
息子さんはそれを実地に学びにいっているのですから、親としては正解をあたえるのではなく、失敗も大きな経験なのだと思って見守ってあげる姿勢が大切だと思います。
また、親のできることとしてはこの対人関係の問題以外のところでの、過保護・過干渉になっているようなことがあれば、それはできるだけ減らしていく方がよいでしょう。
それらの過保護・過干渉が子供の心に作り出す、子供の余裕のなさ、心の幼さというものが、回り回って子供同士で関わる際の齟齬を生んでしまっているからです。
普段の生活の場面で大人がおおらかさをもって接することができ、子供に余裕を持たせることができれば、だんだんと子供同士の関わりでも落ち着いた姿が見られるようになってくるのではないかと思います。
| 2014-10-19 | 相談 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
相談 子供が拗ねる(4歳) - 2014.10.18 Sat
10月4日 ももさんの相談コメントへの返信
4歳になったばかりの娘がいます。
最近育てにくさを感じ、記事を拝見させて頂き、私が弱い大人であるがゆえに色んな問題が生じているのだとわかりました。
自分自身が過保護や過干渉により育てられたと感じ、自分に自信がなくぶれることがあり迷いつつ子育てしていることがよくないのだとも感じています。
弱い大人であることに気付いてから自分自身を変えて行くように努力しているのですが、気になることがあるので相談させて下さい。
最近気になることの一つが「拗ねること」です。
皆で遊んでいる時に私が他の子の相手をすると拗ねて離れた場所に行きどうしたのと声を掛けるとしくしく泣きます。
理由を聞くと、ママが自分よりお友達を好きになったのかと思ったと言います。
「ママはあなたが一番大好きだから何も心配しなくていいよ。」と伝え、先回りした関わりや全面肯定などするように努力していますが、何回かこのようなことが続きどのように対応すればいいのか悩んでいます。
もう一つは、お友達に注意することが増えていることです。
皆が仲良く遊んでいる時に、それはしてはダメなど人を注意することが先に立ち一緒に遊べずにいたりする時があります。
幼稚園でダメと規制されることが多いようなのですが、同じ幼稚園に通う子が皆そうではないので私の育て方に原因があると思うのですが、私がダメダメと言っているわけでもありません。
あともう一つ。
お友達や私と話していて、気に入らないと「ふん!」と言ってその場から立ち去ります。(この言葉自体はは見ているテレビの影響だと思います。)
キレやすいというか。。。
言われてとても嫌な気持ちがする言葉であること、自分の意見が通らないからと言ってそんな風にしてはいけないことも伝えると「ごめんなさい」と泣いて謝るのですがこれも最近続いています。
私自身が変わることが一番の解決策ではあると思うのですが、おとーちゃんさんならこのようなことが起きたときどう対応されるか教えて頂きたくご相談させて頂きました。
お忙しいなか申し訳ありませんが宜しくお願いします。
例によって確かなことは言えませんが、たぶん大人の側の弱さゆえに「依存」があることと、自分に自信がもてないことからくる行動ではないかという気がします。
あとはたぶん生活のさまざまな場面での過干渉があるのではないかと推察されます。
>皆で遊んでいる時に私が他の子の相手をすると拗ねて離れた場所に行きどうしたのと声を掛けるとしくしく泣きます。
理由を聞くと、ママが自分よりお友達を好きになったのかと思ったと言います。
このあたりの行動は、「弱い大人」ゆえの大人側の自信のなさが子供のそのような行動を生んでいると考えられます。
「何言ってんのそんなわけあるはずないじゃない」と笑い飛ばしたり、「そんなこというんじゃない、そんなこといったらお母さん怒るよ!」とでもきっぱり言えるような自信のなさ、強さがないばかりに、おとなのその部分に子供は依存をしてしまっています。
(これは大人の気持ちの部分の問題ですので言葉だけ上記のように真似したからといって解決するわけではありません)
そこは子供のその行動に大人が振り回されて、受容だなんだんと慌てふためいてどうにかしようとして改善するものでもありません。なので、そこから
>先回りした関わりや全面肯定などするように努力
というように気持ちを揺らがせてしまうのは、返って子供のそのような依存からの行動を助長するようなものです。
(別に先回りした関わりや全面肯定が悪いわけではありませんが)
>もう一つは、お友達に注意することが増えていることです。
皆が仲良く遊んでいる時に、それはしてはダメなど人を注意することが先に立ち一緒に遊べずにいたりする時があります。
>お友達や私と話していて、気に入らないと「ふん!」と言ってその場から立ち去ります。
このあたりは、子供の自己肯定感からくる自信の有無が影響しているのではないかと感じます。
>自分の意見が通らないからと言ってそんな風にしてはいけないことも伝えると「ごめんなさい」と泣いて謝るのですがこれも最近続いています。
ということは、伝えても繰り返しているということですよね。
つまり、理屈で正論を伝えたことでどうこうなるという問題ではないということです。
ということは、理屈を教えることではなく、子供自身の心を伸ばしていくことが必要ということでしょう。
このときの対応で、最終的に「ごめんなさい」を言わせることはなんの解決にもつながってないと思います。
むしろ追い打ちをかけているでしょう。
否定も非難のニュアンスも込めずに、「どうしたの?」というように子供の心を吐露させるような関わりが必要でした。
ただ、まあこれまでのことはいいですし、このときの対応が「どうしたの?」だったら解決するというものでもありません。
対応のうまい下手はさして問題ではありません。
これからきちんと意識してするべきなのは以下のことです。
大切なのは、そういったネガティブな姿が起こったときの対応をどうするかではなくて、普段の関わりの中で「認める」「肯定する」経験をたくさんつくることです。
このとき、「子供のネガティブな行動をなくさせるために」とか、「子供の心を安定させるために」というような、親が「こうしてやろう」というような気持ちから出発する恣意的な「認める」「肯定する」ではだめなんです。
どういうものかというと、赤ちゃんを見ていて自然と顔がほころんで、暖かい気持ちになって「ああ、かわいいなぁ」と感じるような、大人の無条件な気持ちから発するところの、「認める」「肯定する」なのです。
だから、子供の行動がよく感じられないときなどのことは気にせず置いといて、大人も子供も一緒に楽しめるような時間を持ち、そのなかでなにかを共感したり、一緒になにかを作ったりという経験の中で「認める」「肯定する」をしていくようにしましょう。
もし、卵とか問題なくて調理器具などもありそうだったら、プリン作りおすすめ!
砂糖と卵と牛乳でできます。
簡単なんだけど、手間がそれなりにかかるので大変でもあり、また普段はしないことでもあり、そして食べてもとってもおいしい。
うちでは卵を三回漉して砂糖と牛乳をまぜプリン液つくり、オーブンの天板にお湯を張って蒸し焼きにする方法でつくっています。(僕はお菓子は作ったことないのでクックパッドで覚えました)
その過程や一緒に食べたりする経験のなかでとてもたくさんの自然な「認める」「肯定する」「共感する」ができますよ。
まあ、プリンでなくても全然いいのだけどね。
トランプやボードゲームでも、家庭菜園でも、ビーズアクセサリー作りでもなんでも。
ももさんはたぶん、いま「見えるところ」の娘さんの(とくにネガティブな)姿にとらわれてしまっているので、それらとはまったく関係のないところで娘さんを見てあげて欲しかったのです。
いま必要なのは「子供をどうにかしよう」ではないということです。
ほんとできる範囲でなんでもいいです。赤ちゃんごっこでも出産ごっこでも。
| 2014-10-18 | 相談 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
ゲーム機片手に・・・ - 2014.10.18 Sat
近所の小学生も見るともなしに見ていたのだけど、まあ見事にみんなゲーム機を持っています。
ゲームをしながら道を歩いている子もいました。
公園でもゲームをしているのならばまあわかるのですが、友達と追いかけっこをしている子も、友達と座って話をしている子も本当に開いたゲーム機を片手に持ったまま追いかけっこなり、会話なりをしているのです。
積極的にゲームをしているわけではないのだけど、片手に持ちながらその他のことをしています。
まあだからといって必ずしも大きなことにはならないかもしれないけれど、なんとなくアルコール依存症やタバコ依存症の人のように飲んでいないときでも肌身離さずというような姿を彷彿とさせました。
まだ、外に出て友達と関わっている分その子たちはましな状況にあるのかもしれませんが・・・。
| 2014-10-18 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
相談 叱られるとうつ向いてしまう(1歳6ヶ月) - 2014.10.18 Sat
私は専業主婦でもうすぐ1歳6ヶ月になる息子を育てています。毎日絵本を読んだり、おもちゃで遊んだり、買い物や散歩をして楽しく穏やかに過ごしています。
息子は生まれたときから本当に手のかからない子で、よく食べ、よく眠り、よく笑い、いつも機嫌がよく、優しく穏やかな性格です。もちろん、ぐずったり泣くこともありますが、すぐに気持ちを切り替えられるようです。一方、幾分慎重なところがあり、初めの一歩がなかなか踏み出せないところがありますが、踏み出してしまえば、大丈夫というようなタイプです。人見知りもほとんどなかったように思います。また、空気が読めるとでもいうのでしょうか、聞き分けもよく、そもそも親の困ることや危ないこともめったにしません。してほしくないことも言葉で伝えれば理解してくれます。
最近では自己主張も出てきたり、なんでも自分でやってみようとしたり、進んでお手伝いらしきこともしてくれます。まだミルクを飲みたがったり、オムツが取れそうな気配はないですし、言葉も喃語程度しか話さず、幼いところもありますが、息子のペースで成長してくれているようです。
私はというと、普段は大雑把でさっぱりとした性格ですが、感情的でワガママ(笑)、気持ちの切り替えも下手なところがあります。ただ、息子のおかげで、そんな私でも普段穏やかに息子を可愛がり、受容を中心とした関わりができているのだと思います。もともと親を困らせることがないため、過保護・過干渉になることもありませんでした。
しかし、私自身がとても疲れているときやイライラしているときは、本来の感情的な性格もあり、息子を叱るときに普段なら言葉で丁寧に伝えれば済むことを、大きな声で怒ってしまうことがあります。
時々とはいえ、このことが影響しているのでしょうか?3ヶ月程前から、大きな声で怒ってしまうときはもちろん、普通に言葉で注意するときもそうですが、困ったように頭をポリポリし、うつ向きになり、目をこすり泣き真似のようなそぶりをするようになってしまいました。ここ1ヶ月はさらに完全に顔を床につけ、拗ねたようなポーズをします。もちろんしばらくすると自分で顔を上げ、目を見て話を聞いてくれ、その後は笑顔が戻りますが。
これまでしてほしくないことは、一貫して毅然と言葉で伝えてきたのですが、やり過ぎだったのでしょうか?非常に聞き分けがいいことや息子が私に対して優しさを持って接してくれていると感じることが多々ありますので、実は親の顔色を伺っているのではないか、気を遣っているのではないか、また怒られても少し泣く程度なので気持ちを抑えこんでいるのではないかと心配です。
これまで特に心配事や困ったことがなかったため、このことが気になって仕方ないです。いろいろなお子さんを見てこられたおとーちゃんさんのご意見をぜひお伺いしたいです。ちなみにブログは1歳頃知り、そこからは受容など意識するようになりましたが、それ以前はたまたまそのような育児をしていたという感じです。
実際の関わりを見たわけではありませんので、確かなことは言えませんが、1歳半という年齢で、まだ言葉も出ない段階であり、穏やかで感じやすいタイプの子供に対して、感情的に声を荒げてしまうというのは子供にかなりの負荷をかけてしまっているという可能性もあります。
1歳6ヶ月でなくとも、感情的になっている人の前ではうつむきたくなってしまうものです。
これは大人ですらそうでしょう。
ましてやまだ反論する言葉も思考も力も持っていない段階の年齢ですから、うつむくか、泣きわめいてその状態におかれることに抵抗を示すか、心の成長を敢えて進めないことで幼い状態に自分をおき、そこでのダメージを小さくするように無意識にそういった育ちになるなどの様子が見られるものです。
どのような状態でそういった感情的な関わりになってしまうのかわからないけれども、1歳6ヶ月でこれまで受容を心がけてきたということであれば、そうそう強い感情をしめして子供をコントロールせずとも、伝えられる方法(もしくはやり過ごす方法)というのはあるかと思います。
もし、感情的になってしまうことにその原因があると感じているようならば、そのあたりを一呼吸おいてあまり強い出し方にならないように気をつけてみるといいかもしれませんね。
余談ですが僕自身は、とても感情的でヒステリックに怒る母親に育てられてきましたので、自分を表現することや他者との関わりなど心の根っこの部分で萎縮したところがあり、大人になってすら長年にわたって生きづらさを感じてきました。
むかしなんかの本で読んだのですが、感情的に育てられた人間は理屈っぽくなる傾向があるそうです。僕の理屈っぽい性格はそんなところにも関わりがあるのかもしれません。
早いうちに気がついたのですから、よしんば対応が思うようにならなかったしても、頭の片隅に意識をおいておくだけでもずいぶん子供へ与える影響というのは変わってくると思います。
| 2014-10-18 | 相談 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
相談 音楽について - 2014.10.18 Sat
いつも更新を心待ちにしています
今月で1歳になる息子の子育ては後追いまっさかりで大変ですが、ブログの関わり方を参考に、笑いのある時間をたくさん過ごすことができています
最近になって、息子は音楽に合わせて身体を動かしたり歌ったりするようになりました
うちはテレビがなく基本無音の環境で子育てをしていることもあり、仕掛け時計の音や、洗濯機の終了のお知らせ音にも楽しそうに反応します。なので、最近は私がたまに子ども向けの音楽をyoutubeから拾って聴かせています
私が童謡や歌謡曲を歌ってあげても楽しそうにしてます
楽しそうにしているので、特に問題はないのですが、音楽についてオススメなどありましたら、教えていただけたらなと思います
お恥ずかしながら僕自身は保育は三流のピアノもろくに弾けないなんちゃって保育士なので、音楽のことでおすすめできるようなものはないのですが、小さい子供に特に家庭では、やはりたくさんの肉声で歌ってあげることは大切だと思っています。
やはりたくさん歌をお母さんに歌ってもらった子というのは、音楽をよく好むようです。
味覚などと同様、耳も乳児はとても敏感にできています。
その乳児の耳に過度な負荷にならずに伝えられるのは、やはり肉声の歌であり、そしてその自分に向けて歌ってもらったという経験がとても大きな価値をもちます。
お父さん、お母さんが歌ってくれているときの穏やかな、暖かい気持ちというものも音楽体験の基礎として子供は受け止めているからでしょう。
にぎやかな曲というのは後からでもいくらでも吸収できますからね。
なので、大人自身が暖かい気持ちになれるような自分のよく知っている好きな童謡などを歌ってあげるというのも乳児期の経験としてとても大切ではないかと思います。
僕自身は『赤とんぼ』や『ふるさと』などのあのもの悲しくも郷愁をさそう歌や、『しゃぼんだま』『どんぐりころころ』などのポピュラーな童謡が大好きです。
乳児クラスを担当したときなど、とりたててなにもなくともよく口ずさんでいたりします。
なにかと忙しかったり、イライラしそうなとき大人の側の気持ちも穏やかにさせてくれるような効果もあります。
ちょっとご質問の趣旨とずれちゃったかな?ごめんなさいね。
童謡は意外と(というかかなり)、歌詞や音程を間違えて覚えていたりするので、歌詞集を持っていると便利です。
| 2014-10-18 | 相談 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
ニーズという魔物 vol.3 ー保育の変質は保育士の人離れを生むー - 2014.10.17 Fri
無認可なので補助金もなく毎月自身の貯金からの持ち出しでなんとか運営をしているそうです。
認証制度などを取ろうにも(認証されれば補助金がでる)、いくらベテラン保育士であっても個人からの出発ではまず取れないということでした。また、ひも付きになることで、自分の理想とする保育ができなくなってしまうことは避けたかったので、あまりそれにはこだわらなかったそうです。
暖かみがあり朴訥なその方は多くを語りはしませんでしたが、既存の保育園での限界をひしひしと感じていたからこそ、独立した自分の園で理想とする保育を追い求めたのだと思います。
いま新システムの制度が導入されることになり、保育園のあり方も大きく変わろうとしています。
保育が行政の措置制度ではなくなり、園と個人との個別契約のかたちとなっていきます。
そのなかで、これまでの公立園や認可園も独自性を打ち出しアピールをしていくようにといった流れになっています。
国や行政の向いている先というのは、保育の質などはもはや眼中にはなくて、いかに安く維持運営し、その上がりで園を増やすというところしか見ていないので、営利企業の園がしているような、親のニーズに応えるような方向で満足度をあげさせ不満をいかに出さないかということになってきてしまっています。
そういうなかで心ある保育士は、子供へ「本来すべきことができない」という閉塞感を感じるようになってきています。
本当に子供を適切に援助し健全な成長を遂げさせたいと問題意識や専門性をもった保育士は、子供をないがしろにしてまで「世間受けのいい保育をしなさい」という職務命令には従えないのです。
僕だってもし勤めた園が利益のために外面だけはよくして、内で子供を邪険に扱っている保育をしていたとしたら、良心がとがめてそこで働き続けることはできません。
それが極端ではないにしても、じわじわと保育士のまわりに取り巻いてきているのを心ある保育士たちは感じつつあります。
職場にめぐまれなければ、問題意識の高い保育士ほどそこでの職務にやりがいを見いだせなくなっていきます。
僕自身もどれだけ優れた保育士たちが、職を辞していくのを見送ったでしょうか。
質の低い保育をしているところや、理念のない上司の元では、良心がとがめることのない問題意識を持たない人ほど残っていきます。
もちろんそれでも頑張って踏みとどまってくれる人もおりますが、保育士は元来職人みたいなところがあって、そういう人は指導的な立場を目指すよりも、一生平保育士であることを望む人も多いです。
うちの妻も最近は本来の子供のための保育以外のところでたくさんの徒労感を感じるようになっていて、僕の本がたくさん売れてまとまった資金が出来たら一緒に保育園作ろうかなどと言ってきます。
本が数冊出たとしても物書きなんかさして儲からないのですけどね。
とはいえ、ニーズを追い求めることを目的とするようになった保育園は、一般からの外からの見た目は同じでも、今後内部の人的資源が大きく変わっていくかもしれません。
いまでさえ貴重な、専門性が高く、問題のある子ですら受け止めて安定化させ健全な育ちを助けていってあげられるような人材というのがさらに減っていってしまいかねないでしょう。
いま多くの人が保育園に付加価値を求めだしています。
我が子のことだけを考えるのならば、それでも問題ないかもしれません。
しかし、保育園にくるのは円満な家庭の子ばかりではないのです。
虐待されている子や、ネグレクトを受けている子、家庭に複雑な事情を抱えた子、病気や問題を抱えた子、さまざまな子がそこで福祉的なサービスを受けているのです。
いわば社会インフラとしての機能を持っています。
保育園が社会的多数派のニーズだけに目を向けてそれを追うようになっていけば、こういった子供へのケアはだれがするのでしょう?
この子たちに本当に必要なのは、当然ながら大人を喜ばせるためのちょっとした芸事や特技のたぐいではありません。
お金をたくさん払える層ばかりを中心に保育を組み立てていったとき、この子たちの受け皿は果たして残るでしょうか?
昨今プアチルドレンということが言われるようになってきています。子供を抱えた貧困家庭の問題です。子供の6人に1人がすでにそうであるという報告もなされています。
金銭的に豊かな家庭というのは、ことさら援助を厚くせずとも貧困家庭よりもはるかに救われやすいです。
でも、金銭的に不十分な家庭は、お金をたくさん費やさずともさしのべてくれる手がなければ救われることはありません。
英会話教室の分だけ、リトミック講師の分だけ、高度な音楽教育の分と保育料が高くなったら、生活に余裕のない家庭はそういった場からははじき出されるようになります。
お金のある家庭が、保育園に通いつつ、習い事もチョイスするというのであればそれはなにほどもなく選択できます。
しかし、お金のない家庭が保育園からはじかれてしまえば、それを救える場は多くないでしょう。
別にはじかれずとも、その保育園にその子に適切な援助をしてあげることのできる職員がいなかったり、そういった子を援助しようとする保育園の姿勢がなければ、問題はそう変わりません。
親のニーズを第一とし、営利を旨とする保育園であれば、こういった社会的福祉が必要な子を喜んで受け入れようとはしないでしょう。
保育に手もかかり、トラブルも多く、親の対応は難しく、周囲の保護者からの受けも悪く、金銭的な利得も少ないとなると、そういった子は「お荷物」となります。
園の理事者側がそういった子を「お荷物」と認識しだしたら、理事者や利用者の顔色をうかがおうとする園長もそういう子の存在を好意的には見なくなります。
そこで働く職員も、その影響を受けることになるでしょうし、その職員が誠実でできるだけのことをしようと思ったとしても、組織として取り組まないことを、それに逆らってまで個人がそれ以上のことをできるべくもありません。
これからの潮流は営利でない園にも、(多数派の)親のニーズを追っていくことを要求しだしています。
一般の人の目にとまることは少ないかもしれないけれども、保育園というものは社会のあり方をしたから支えている役割を持っているのです。
援助の手の届きにくいこれらの子供に対してのケアがおろそかになってしまえば、虐待の悪化・激化や、幼少期の人格形成を適切に送らせてもらえなかった子供たちが将来にわたって社会に損失を与えていく可能性などのリスクが上がることはさけられないでしょう。
サービス業化する保育は、心ある保育士の保育離れを生みかねません。
ただでさえ今ですら、保育士資格を持ちつつ、できたら保育の仕事をしたいと考えていても、さまざまな理由から保育士以外の仕事に就いている人がたくさんいます。
いまですら減りつつあるのです、今回の新システム等で保育のあり方が大きく変わってしまったら、もう後はないかもしれません。
保育園はもっとも市民に身近な福祉として、社会のセーフティーネットの役割を持っているのです。
耳に聞こえの良い話につられて、それらの機能が低下してしまうと将来の社会リスクをあげてしまいかねません。
いま、まったく楽観のできない瀬戸際に来ていると感じます。
| 2014-10-17 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
絵本 アーノルド・ローベル - 2014.10.16 Thu
10月2日 ゆかりさんの相談コメントへの返信
初めまして。
いつもブログを拝見させて頂いています。
とても勉強になり、このブログに出会えて嬉しく思っております。
お忙しいところ申し訳ないのですが、アーノルドノーベルさんの絵本で、1歳5ヵ月の男の子が楽しめるものは有るのでしょうか。
教えて頂けますと助かります。
宜しくお願い申し上げます。
絵本の適齢ということだけで考えたら、1歳5ヶ月の子供にちょうどよいものというのはアーノルド・ローベルにはないかと思います。
ローベルはどちらかというと童話に挿絵がたくさんついているというタイプの絵本なので、どうしても比較的対象年齢はたかめになってしまいます。
でも!
そんなこと気にしなくてもいいんです、とも言えます。
実は僕の息子が生まれて初めて読んでもらったであろう絵本というのは、アーノルド・ローベルの『こぶたくん』という絵本です。
生後一ヶ月を妻の実家ですごし、たしかそれで戻ってきたとき(もしかすると実家に行く前だったかな?)に機嫌の良さそうなときに僕がとなりで朗読してあげました。
『こぶたくん』の絵本にでてくる主人公のこぶたくんは5歳くらい、妹のアマンダは2歳くらい、「大きくなったらこんな男の子になるのかな」などと考えながら読んでいました。
偶然にもちょうど同じくらいの間隔で妹が生まれ、どちらも「ほしぶどう」の好きな子になりました。
今でも僕は『こぶたくん』を読むと、いつも息子が生まれたばかりのころの気持ちを思い出すことができます。
ローベルは『かえるくん』シリーズ(『ふたりは~~』)から入る人も多いようなのだけど(僕はそうでなかったけど小学校の教科書にのっていたことがあるらしい)、僕の場合は『やどなしねずみのマーサ』の絵がなんとも暖かみがあって手に取ったのがはじめてでした。
個人的にはいまでもそのお話は大好きです。
「過去にはあったはずだけど、いまではもはや自分のものとして手に取ることができないなにか」というあの気持ちがこの本を読むと浮かび上がってきます。
『ふくろうくん』
のあのひょうひょうとした雰囲気も大好きです。
子供たちが寝るときに楽しみにしているのは、『とうさんおはなしして』です。
ねずみのお父さんが、7匹のこねずみのために7つのお話をしてあげます。
うちにはねずみさんは2匹なので、僕が寝かしつけるときには寝るたび毎に2つ読んでいます。
繰り返し読んでいるので、話なんかもうよく知っているはずなのに、何度でも楽しんでくれます。
2つ読み終わって、「次の話は〇〇だね。じゃあおやすみなさい」と声をかけると、
兄妹ふたりして「つぎのおはなしおもしろいんだよね、ウフフフ」と楽しそうにささやき合いながら眠りについています。
子供たちが好きで、子供たち自身も一番読んだのではないかなと思うのは『どろんここぶた』です。
きっと子供は、冒険の旅にでるどろんここぶたに感情移入して何度もそれを楽しんでいるのではないかと思います。
ローベルは好みが合えばまずはずれというものはないと思います。
いまはお子さんが十分に理解しないとしても、子供といっしょに見て自分が楽しんで、楽しんでいるお母さんの気持ちに寄り添わせておくだけでもそれはすてきな読書体験となるかもしれません。(それは子供の個性によりますが)
別に、子供と一緒に読まずとも、大人だけで読んでいつかこれを一緒に楽しめたらいいなぁと、その期待をタイムカプセルのように本に込めておいてもいいと思いますよ。いずれ子供と楽しめるようになったとき、きっと大きな充実感が得られると思います。
地味だけど装丁も素敵なものですから、正面向きで立てかけて絵のように飾っておいてもいいでしょう。
絵本は「子供に読ませる」ということだけでなく、柔軟に大人も楽しんでいいのですよ。
最後に。
ローベルの作品はその多くをご自身が詩人・作家でもある三木卓さんが翻訳されています。
とりたてて、奇をてらった文章ではないのですが、この方の翻訳の仕方もきっと大変優れているからこそ、ここまで読み手の心に情感を呼び起こさせる本となっているのではないかと思います。
本当に多くの方に手にとっていただきたい絵本です。
図書館や大きな本屋さんであればたいていはおいてありますので、手にとってよいものを見つけてみるといいですよ。
| 2014-10-16 | おすすめ絵本 | Comment : 17 | トラックバック : 0 |
相談 排泄の移行期 パンツで失敗ばかりになってしまう(2歳8ヶ月) - 2014.10.16 Thu
10月2日 2人目ママさんの相談コメントへの返信 こちらの記事
以前相談した者です。
またよろしければお時間あるとき返信頂けたら嬉しいです。
2歳8カ月の娘と3ヶ月になったばかりの娘がいます。
上の子は意思の疎通もしっかり出来ていてお話も沢山します、下の子に対して意地悪することもなくチューしたりと可愛がっていました。思えばイヤイヤ期がまだありません。
4月から幼稚園とゆうこともあり、そろそろまたトイレに再挑戦と思い、始めてみました。(一回挑戦してまだ早かったんだなーと思いオムツに戻しました)
もう無理だろ〜って頃にトイレへ誘ってもたいてい出ない〜と断わられます…その時はそっかーしたい時言ってねと見守ります。行くー!と珍しく言ってトイレに座っても出ません。そして必ずどちらにしても漏らしてしまいます。。あまりしつこく聞くのも良くないですよね。かといってパンツにしてからずーっと漏らしてしまっていて失敗ばかりで本人も傷ついてるのかなと思っています。
モジモジしているときに聞いても絶対絶対出ないといいます…。
漏らして掃除が嫌だとかではありません、おしっこの間隔は短い時は2時間で昨日は7時間もしなかったので失敗を警戒しているのかな…オムツに戻した方が良いのかな…と悩んでいます。
パンツにしてから妹の手を凄く意地悪そうな顔で触っているのを見てビックリしました。私がストレスを与えてしまったんでしょうか。うんちをしても教えてくれない事も多々あります。気持ちわるくない?綺麗にしよう、と優しく言ってるつもりですが、それでも「してないよ〜」と言い張るときもあります。おしっこは教えてくれたりしますが、思えば私が先に気付いてしまっています。
いつもイライラを抑えるようにして失敗しても気にしないでねーといいますが、とてつもなくイライラしてしまう時もあり⤵︎ その都度娘にごめんねと伝えますが、そのせいで今娘も不安定になってしまっているのかなと…かなりいきづまってきました。どのように対応したらいいんでしょうか
漏らしてしまったことを、トイレでしなきゃダメだよと冷たく言ってしまったこともあります。人格形成に影響が出るくらいデリケートな問題のトイレトレーニングをいまやってるんだからもっと優しく最良の方法で接してあげなきゃと思っていますが、わたしも上手くできなくて辛いです。周りに相談しても、
1時間でトイレ行け行け言ってたら出来るようになったとか怒っても大丈夫と言う人ばかりです。
他でカバーしてればそれでもいいのかなと思う反面、やっぱり私には出来ない…と思います。
なんだかわかりにくい質問でごめんなさい。
失敗ばかりになっていてもパンツで続けて大丈夫か…ってことなのですが。またオムツに戻すのも混乱しそうな気もしてるんです。
だけど長時間出かけるとき、
寝るときはオムツなんです。。
私のやってることは本当に意味のないことなんじゃと思ってきました。長々ごめんなさい。
排泄は個別の要素の強いことなので、必ずしも正しいということは言えません。参考までにどうぞ。
排泄は身体的な自立であると同時に、精神的な自立・自律とも密接な関わりがあるということは、この記事のシリーズで書いたとおりです。
>モジモジしているときに聞いても絶対絶対出ないといいます…。
排泄のこの移行期の年齢というのは、
青虫がさなぎになって、チョウになる過程のうちの、「さなぎ」の時期なのです。
大人の希望は、「もらさずにトイレで排泄してほしい」ということしかほとんど見ていませんが、子供はそうではありません。
人に指摘されてトイレでするということでは心の成長が遂げられない ということを無意識に理解しているのです。
「あなたに言われてトイレでできれば、あなたは満足かもしれないけれども、それでは自分の羽で大きく羽ばたけるチョウになることができないのよ」
ということを、青虫が誰に教わらずともさなぎになるように、人間の子供も自分で自立しなければ、本当の自立にはならないということを自然と理解しているのです。
だから、「おしっこ行け!」という大人からのアプローチ(またはそういう圧力)を子供は大変に嫌います。
それは自分の意思ではない、それでは自分が自分の力で羽ばたけないということを子供は知っているからです。
ですから、この記事にあるように見極めが不十分なままにパンツに移行してしまうと、大人が子供の排泄を気にかけすぎて過干渉な状態になり、子供の精神の自立まで阻害してしまうことがあり、僕はできるだけその事態を招かないようにこの一連の記事の中で注意をうながしてきました。
コメントの印象からするに、たぶん娘さんのパンツへの移行は早すぎたのだろうと思います。
おむつのままの状態で、
オシッコデタと伝えられる時期 → トイレへ座って出るという成功体験
こういった経験をストレスが少ない状態でもっとたくさん積み重ねた方がよかったでしょう。
>失敗ばかりになっていてもパンツで続けて大丈夫か…ってことなのですが。またオムツに戻すのも混乱しそうな気もしてるんです。
たしかにパンツにしたりおむつに戻したりというのを大人が恣意的にするのは好ましいことではありません。
ですので、移行が早すぎたとは思いますが、だからといって戻すべきとも軽々しく言えません。
僕が記事の中でパンツへの移行を焦らずに見極めを十分にしましょう、パンツをちらつかせて期待を煽るのはしないほうがいいと言っているのは、そういう事態を極力避けたいからです。
大人が一旦パンツへの期待をのぞかせたり、移行をさせてしまうと、そこからは子供の自尊心がスタートするといっても過言ではありません。
戻させると言うことは場合によっては、子供の一度火がついたものを大人が踏み消すということになりかねない場合もあります。
ですが、もしまだ子供があまり意識せずにすんなりと戻せるようであれば戻してしまうことも視野にいれてもいいかもしれません。
>だけど長時間出かけるとき、寝るときはオムツなんです。
ということですから、まだ戻すことのデメリットというのは少ないかもしれませんね。
そして可能ならばストレスフリーの状態で、成功体験をつませることです。
>4月から幼稚園とゆうこともあり
>いつもイライラを抑えるようにして失敗しても気にしないでねーといいますが
やっぱり大人としてはないつもりでも、焦りや現状への不満ということを2人目ママさん自身も感じているのだと思います。
娘さんは敏感にそれを感じてしまうので、余計に失敗を認められないし、自分でできなければならないとかたくなに思ってしまうのではないでしょうか。
もう一点、大人の側のブレと弱さが現在の状況をより困難なもののしている可能性があります。
>うんちをしても教えてくれない事も多々あります。気持ちわるくない?綺麗にしよう、と優しく言ってるつもりですが
こういったすでに出てしまっている事実があるときまで、大人が子供の顔をうかがわなくていいのです。
でてしまっているのならば、あっけらかんと「出たね。じゃあきれいにしてあげるよ」と気持ちをぶらさずに、するべきことをしてあげてしまい「はい、きれいになったから気持ちいいでしょ。じゃあまたあそんでおいでー」と明るくいってあげます。
このときにここで子供の顔色をうかがっておっかなびっくり扱ってしまうと、
>それでも「してないよ〜」と言い張るときもあります
のように、子供は自身の自尊心を賭けて対抗しなければならなくなってしまいます。
あきらかに失敗しているので、そこで自尊心を賭けなければならなくなると、子供は確実に負けが込んでしまいます。
すると、それは気持ち的なマイナスになります。
そのマイナスを埋めるために、ネガティブな行動に駆り立てられなければならなくなるので、大人のブレ・弱さからくる「子供の尊重のようなもの」は返って重荷となることがあるのです。
だからここで子供と真っ向から戦ってはならないのです。軽くいなして着替えやきれいにすることを大人としてしてしまえばいいのです。
なので、出てしまったときはうむを言わさず、でも焦りも責める気持ちも落胆もなしにあっけらかんときれいにしてあげて、きれいになった気持ちに共感をしめしていくといいのです。
そういうわけで、もし今後2人目ママさんが焦りや、イライラを出さずにお子さんの様子を見守っていけるというのであれば、このままパンツのまま推移を見守ってもいいでしょう。
でも、それが難しく感じられるのであれば戻すのを視野にいれて対応をしてみるとことも必要かもしれません。
戻すことに強い抵抗を示すようならば、無理に戻さなくてもいいです。
そのときは、上の述べたようなことに留意して様子を見つつ試行錯誤していくといいのではないでしょうか。
その戻そうとしたときは強い抵抗をしめしたけど、思い切ってもどしてしまったらあとは安心してすごせるようになったといったこともありますので、そのあたりは個性に合わせて対応します。
| 2014-10-16 | 相談 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
ニーズという魔物 vol.2 ー付加価値の保育ー - 2014.10.16 Thu
また、申し込みにもれてしまった方、時間・日程が合わず申し込めなかった方にはまたの機会や、別のかたちでの企画等を考えていきたいと思います。
今回の企画は平日ですので、参加できる方が限定されてしまうことと思います。これが土日に開催できるのであれば、また参加者の層も変わってくるだろうといったことは担当の幹事さんとも話しておりました。もしそういう新たな企画が組めればまた違った切り口でのことをお伝えできるのではないかと感じております。
昨今の親の志向というのは、
「幸せ」ってなんなんだろう vol.3
この記事で書いたような、子供に付加価値をつけることに偏重してきています。
そういったアプローチが必ずしも子供のためにならいということではありませんが、すでにその記事で述べたように”あやうさ”をはらんでいるものです。
しかし、これは紛れもなく現代の親の「ニーズ」として存在しています。
むしろ、その付加価値をつけるためならばお金を(ときには大金すらも)払うことをいとわないという人も多数います。
テレビや雑誌で取り上げられ話題になるような幼稚園・保育園はまず決まってこのような「お子さんにこれこれこういう付加価値をつけますよ」というところばかりになっていることは皆さんも感じることと思います。
そしてそれらはものすごい人気を博し、運営者にしてみればとても大きな利益も上げています。
ニーズを読んだ保育というのは儲かるのです。
そういた付加価値をつけるアプローチがうまくはまる子供というのもいることでしょう。
ですが、子供の成長・発達というのはそのようにモデルケースのような場合ばかりではありません。
基盤となる生活が確立した上で、成長・発達を見極めて、「この子にはこういうことを身につけさせたい」と無理のない範囲で習い事などをチョイスするというこであれば、それはさして問題なくおこなうことも可能でしょう。
しかし、生活の場において紋切り型にすべて子供に押しつけていくとなると事情は変わってきます。
保育園で親向けのアンケートをとると必ず「もっと子供に勉強を教えて欲しい」ということが入ってきます。
1~2歳の乳児クラスの親ですら例外ではありません。
現代の子供を取り巻く状況というのは、むしろこれまでの時代のどこにもなかったような、「家庭」というものが欠乏した状態にあると言えます。
核家族でありながら、母親までもがフルタイムで忙しく社会に出て働くようになり、子持ちの女性でも男性と同じように泊まりの出張を命じられることだって出てきています。食事も毎日出来合いのものや外食になってしまっている、家には寝に帰るだけ、そういう子も珍しくありません。
そのなかで保育園という日中子供を預かる場は、これまで以上に「家庭」の機能を代替しなければならなくなっています。
ですが、親のニーズの向かう先は、むしろ「家庭」よりも「学校」に近くなっています。
いまの親はなんかいろいろ焦ってしまっているのかな。
ここで親の望むことと、子供のおかれている状況との乖離・齟齬が起こっています。
しかし、親のニーズを第一とするようになった保育園には、子供のその声を代弁する機能はもはや残ってはいません。
「この子は狙い通りに付加価値をつけることができて”当たり”の子供だわ。この子はちっとも思い通りにいかないから”はずれ”の子供ね。まあお客様だからいる間はそれなりに対応しておきますけどね」
そうなるでしょうし、すでにそれは起こっています。
しかし、保育の専門性の低い現状の保育園からはこの問題は見えていません。
親が付加価値を望んでいるのだし、園もそれで儲かるのだからwin-winじゃないということになっています。
ですが、そうなると子供の本来の育ちはおいてけぼりです。
現状の保育士の問題意識、政治の流れ、世の中の流れ、行政の動きを考えると、もはや保育界の中から自力でそれを改善することはできそうにありません。
意識の高い園や保育士・研究者もたくさんいるのですが、そういったところの声は世の流れにかき消されています。
一方で子供の育ちを二の次にしてでも、付加価値をつけて利益を得ようとしているところの声はとても大きなスピーカーから流れてきます。
マスコミというのも元来が大勢のニーズに応えることで存在しているものですから、やはりそれを援護しています。
利用者である親の意識が、付加価値をみるのか、本来の子供の育ちをみるのかというところが、この問題を是正するいま取りうる唯一の方策ではないかという気がします。
| 2014-10-16 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
ニーズという魔物 vol.1 ー保育評価のからくりー - 2014.10.15 Wed
こうままさんからいただいたコメントに刺激されて、このように実現することができました。ありがとうございます。
こんなことがありました。
某チェーン展開をしている企業の保育園でのこと。
盛夏の8月ごろ。
午後3時半をまわった時刻、2~3歳児をつれて園外に散歩に行くのを見かけました。
それが毎日のようにあるものだから、顔見知りになっていたそこの保育士にあるとき、この暑いさなかに午後から散歩に連れ出して大丈夫なの?と聞いてみました。
すると、午前中はたっぷりプール遊びもしているし活動量は十分だから、熱中症や熱射病のリスクを冒してまで本当は出るべきでないと思っているのだとのこと。
よくよく聞いてみると、親からの「外遊びをたくさんさせて欲しい」という要望を受けた園長からの指示でそうしているとのこと。
いまでは熱中症の危険性なども広く知られるようになっています。
しかしそれだけでなく、午後の園外保育(散歩)というのはリスクが高いものなのです。
午後は子供も大人も疲れてきていますし、注意力なども散漫になってしまいます。真夏ともあればなおさらです。
その分ケガやトラブル・事故のリスクというのが上がります。
家庭でひとりふたりの子供を見ているのとは違って、集団でのそれは思わぬ結果をもたらす可能性があります。
身体的な疲れや、注意力のおとろえなどはどれほど注意したところで、人間である以上避けられない部分もあります。
保育中の事故、とくに重大な事故(大きなケガや死亡事故、置き去りなど)は、そういう情報に関心を持ってあつめていると、午後の園外保育中というのがとても多いことに一般の方でも気がつくと思います。
また、同じその園では年長クラスの午睡を、これも親からの要望で、5月から取りやめることにしていました。
年長の担任に話を聞くと、就学を考えて後半の適切な時期で午睡をやめるというのは考えていないわけではなかったが、現状は時期尚早だったと感じているということ。
午後や遅番時のケガやトラブル、子供の不安定な様子など明らかに増えているので、担任としてはいまからでも午睡を再開したほうがよいと判断しているそう。
しかし、これも親の要望を受けた園長の指示でせざるを得ない状況になっているとのことでした。
しかしさらに、それを受けて年長クラスよりも低年齢のクラスの親からも「夜寝ないので午睡を年長同様にやめてほしい」という声が出てきており、それがどうなるか心配しているとも話していました。
(この事態については過去記事で述べたことがあります)
『相談 夜寝ようとしないので昼寝をやめるべきか? 追記あり2014/08/22』
保育は近年、営利企業の認証保育所制度導入、こども園構想、営利企業の認可保育園参入、新システム導入など、一連の流れの中で「保育のサービス業化」が急速に進んでいます。
そのなかで、親向けのアピールやニーズへの関心というものが注目されています。
むしろ当の子供のこと以上に、現状は親の顔色をうかがうことに保育園側は必死になっているのではないかという印象すら受けます。
この動きは営利の園だけにとどまっていません。
公立園や社会福祉法人の認可園にも当然のように波及してきています。また社会の情勢から嫌でもやらざるをえないことになりつつあります。
もともと、保育に確固たる理念もなく長年やってきているようなところも実際にはたくさんありますから、特にそういう人は簡単にいまの時流に流されています。
もちろん僕は、子供を預けている親の意見を聞いて保育の問題点を改善していくことや、適切なニーズに応えていくということを否定しているわけではありません。
既存の園が、ずさんな保育や非難されるようなことを平然と続けてきたという現実も重々承知していますから、多くの方がこれまでの保育園の体質を変えていかなければならないという意見をお持ちであることは存じています。そしてそれは僕もまったく同意見でもあります。
しかし、ここではそれらまで含めての話にすると複雑すぎるので、まずはニーズに左右されてしまうことの問題点に絞った話をさせてください。
こうままさんのコメントから『トップ保育園と下位には大きな差 東京保育園ランキングを使い倒せ』このサイトをご紹介いただきました。
ここでいうところの「保育園ランキング」というものを全否定するわけではありませんが、これにはある種のデータマジックとでもいうものがあることは実情を知るものとして指摘しておくべきだと思いました。
このランキングは「第三者評価」というものが元になっているわけですが、事実上これの主な基準というものが預けている保護者からのアンケート・満足度で成り立っているということです。
実際に親からも見て明らかにわかるような優れた保育をしていたり、育児相談を受けたり、地道な親との信頼関係の構築をしてそういった子供を預けている保護者の満足度を高めているというところももちろんあることでしょう。
しかし、現実には保育の内実とは関係なしに、とりあえず親の要望を受けて満足度を高め、不満を少なくしさえすれば高い評価になってしまうのです。
最初にあげた話の園も、実はランキングの上位に入っています。
現実は、そこで働く保育士自身ですら子供のあり方、保育の実情に危機感を感じているのに、親の要望を黙って聞き入れることで「良い保育」していることになってしまっているのです。
ほかにも僕はランキングの上位に入った園の実情を知っているところがいくつかあります。
それらを保育士としての視点から保育に点数をつけるとしたら、及第点に達していないところもあります。
繰り返しになりますが、すべてがそうというわけではないでしょう。その高評価が示すとおり、優れた保育をしているところもあるはずです。
ただ、本当に子供の健全な育成のために良質な保育を展開していることと、この満足度をあげることは必ずしも一致するわけではないということです。
親から見えるところを立派にしていれば、見えないところ(例えば日中の保育内容など)手を抜いてもなんら問題なく、このランキングはあげてしまうこともできるのです。
これがいまの保育界をとりまく現状になっています。
目先の親からのニーズに振り回されてしまえば、あるところでは「子供の育ち不在」の保育が行われていってしまうことでしょう。
こうままさんの指摘にもあるように、おむつがいつ外れるかというのは個々の個性・発達の上に判断できることであって、「いついつまでに外れます」というのは子供ではなく親の方を見た保育をしているということになります。
もし、その「いついつまでに外れます」を到達すべき目標として保育士に課したとしたら、なかには意に染まないことを強いられる子供というものがでてくることでしょう。
多くの子のなかにはどうしても排泄が確立しようのない発達状況に置かれている子供だっています。そういう子はこの保育園ではとても苦しむことになるはずです。
もし、自分がそのたびに遊びを中断されて20分ごとにトイレに無理やりいかされる子供の立場になったとして、事情がわかって言葉がしゃべれるのだとしたら、「なんであんたらの宣伝や点数稼ぎのためにトイレを強制されなければならないんだ。アホか!」と言ってあげることでしょう。
しかし、それをアピールポイントとしてどうどうと発言できてしまうあたり、そういった保育園はそもそもの保育・子供の育ちというものを大して理解をしていないわけです。
子供を健全に育てることへの理念や専門性を欠いているからこそ、簡単に親の顔色をうかがって子供の育ちに関係無く、子供を思い通りにするということができてしまいます。
ここで僕が述べたいのはこれまでの保育園の擁護というわけではありません。むしろ、こういった自体を招いたことには既存の保育界の責任というものが大きいだろうと考えています。
明確な「保育」としての専門性を打ち立てられず、それを一般に広く知らしめることができなかったことが、保育士としての専門性以上に、その人その人の気分にすら左右されることのある「ニーズ」というもの発言権を大きくしてしまった原因があることと思います。
このまえ
「幸せ」ってなんなんだろう vol.3
の記事を書きました。
親の「ニーズ」というものに対して保育士が専門性を打ち出せないとしたら、例えば、この記事にあげたような事態の子供を保育士は救うことが出来ないということです。
「お父さんお母さんがいまのうちからたくさん勉強をさせたいということですね。
じゃあこの子の性格が日々ひねくれていっていますが、自分は親のニーズには逆らえないので口をつぐんでいますね。
自分が担任を外れるか、保育園を終えて小学校にいってしまえば自分は関係ないので、それまでこの子の問題行動を抑えつけておけばいいや」
ということになっていきかねないでしょう。
ただ、この事態は「ニーズ」うんぬんがなくとも、保育の専門性のないただの「子守り保育」をしていたところには以前からあったわけですが、ニーズ至上主義とでもいうものが今後保育界を席巻するのであれば、それは保育士の怠慢ゆえではなく、保育のスタンダードなものとなってしまう可能性があることだと僕は強く感じます。
そうなってしまうと、もはや社会のセーフティーネットとしての役割は保育園にはなくなってしまいます。
いまの潮流である「保育のサービス業化」ということは、10年後20年後にそのツケを払わされる大変あやういことではないかと危惧します。
専門職である人間が、利用者の顔色をうかがわなければならないという事態は、たとえば、病院にいって検査して実はガンだったとしても、その人がそう言われることを望んでいないと思えば、「あー、ただの胃潰瘍だからたいしたことないですね」と言わなければならないというのと同じことなのです。
現状の保育のサービス業化というのは、その真実を言わない病院が一方で「これを使えば健康に効果がありますよ」と高価な健康食品を一生懸命販売しているようなものなのです。
明らかにいまの保育の潮流は間違った方へと流れつつあります。
つづく。
| 2014-10-15 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
ダイレクトコミュニケーション - 2014.10.14 Tue
僕自身はかなりアナログな人間であると思います。
大学生になったころ、それまでビジネスマンが持つものだったポケベルをコミュニケーションツールとして持つことが周りの同年代の人間にもでててきました。
それがすぐにPHSに取って代わられ、あっというまにPHSも過去のものになり携帯電話が急速に普及していきました。(それも今はスマートフォンに変わりつつありますね)
そんな中でも哲学科の学生は酒を飲んで語り合ってなんぼだと思っていた自分のような人間は、友人たちとああでもないこうでもないといいたいことを言い合ったり、教授や講師の先生を引っ張り出しては居酒屋やコーヒーショップで今にして思えば赤面しきりの議論をふっかけたり、講義では聴けない深い話をしていただいていました。
周りにも似たような人間が多く、友人とも腹を割ったつきあいができたり、先生方にもそんな阿呆な学生でしたが、どういうわけかやる気があるとかわいがっていただきました。
もし、巡り会う人間運とでも言うものがあるのならば、この時代に自分はすごく恵まれていたのでしょう。
このときの人間関係がいまでも続いているし、自分の中核になるものがこの頃に養われたのだと感じています。
その友人たちの何人かがいまは大学で講師をしていますが、最近の学生はまったく違っているとのことです。
基本的にはとてもまじめで講義は一生懸命受け、理解しようとは努める。特に出席などの見た目でわかりやすいものにはこだわるそうです。
むしろ、出席をとらないと学生の方から「出席をとってください」と言われるそうです。
僕のころは「成績はレポート一発」みたいな講義こそ人気があったものですが。
そして、講義が終わると友達と遊びに行くでも、サークル活動やバイトをするでもなくそそくさと帰り自分の個人的な趣味などをするという人が大変多くなっているそうです。
友達と集っても携帯ゲーム機での協力プレイなどをしていたりということも多いようです。
それらが悪いということでもありませんが、コミュニケーションのかたち自体が現代では変わってきていることのひとつの表れだと感じます。
かつては、ダイレクトコミュニケーションが明らかに人との関わりのメインであったものが、現代では必ずしもそうではなくなりつつあります。
僕の感覚の中では、メールや電話・ネットなどでのやりとりというのは、ダイレクトコミュニケーションを補助したり、支えるためのサブストリームであるのですが、僕と同世代の人でもすでにどちらもフィフティフィフティという人もおりますし、むしろ直接に対面しての関わり以外がメインとなっている人もいます。
若い世代の人たちの中では、もはやラインやSNSなどのネットなどでのつながりというものがメインになっている人の割合というのもさらに多いことでしょう。
それが必ずしも悪いわけではありませんが、その一方で直接人と関わることに対して大きなストレスを感じるようになっている人や、対面での関わりがむしろ円滑にいかないと感じている人、ちょっとしたコミュニケーションの齟齬で簡単に怒りをあらわにしてしまう人なども増えています。
保育園など人との関わりが多いところですと、こういったコミュニケーション自体のトラブルや、すれ違い、勘違いということもひんぱんに経験します。
いま小学校の低学年からPCに触れる授業など増えています。
ネット社会に対応するためにそれらも必要な措置だとは思います。
しかし、高度な情報化社会だからこそ、むしろダイレクトコミュニケーションにも意識を持ってバランスを取れるようなアプローチというのも必要なのではないかと僕は感じるのです。
そして、「子育て」というのはそのほとんどがダイレクトコミュニケーションで成り立っています。
人と関わるスキル・経験にとぼしい人というのは、子供が小さいうちからすでに、しばしば子供の奔放な姿にお手上げになることが見られます。
こういった、子育て以前の大人を取り巻く世の中の状況・あり方というのも現代の子育てが難しくなってしまうことの一因となっているのではないかと僕は感じています。
| 2014-10-14 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
子育てワークショップ vol.3 - 2014.10.13 Mon
前日まで台風の影響で開催がちょっと心配でしたが、当日は天気にも恵まれ無事決行。
ワークショップでは具体的な関わりについて伝えていくつもりですので、その基礎として「叱らなくていい子育て」の概要についてを、かなり圧縮してお話ししました。
限られた時間でうまく伝えられなかった点もあったとは思いますが、今後のワークショップのなかでそれらはフォローしていけたらと思います。
文章で子育てについて書いていて感じるのですが、対面で話をしたら5分で伝えられるものも、字で読んだときに誤解の無いようにいわんとするところを伝えたいと思って書くのは30分、1時間とかかってしまいます。
その点、講演のようなかたちで伝えられるというのは自分の重点を置きたいところなどわざわざ文章でなくとも、言い回しや言葉のトーン、気持ちの込め方で自然に伝えることができるので、ダイレクトコミュニケーションというのはやっぱり偉大だなぁと感じます。
とはいえ、それでも限られた時間の中で、聴く人の求める情報が受け取りやすいかたちで伝えるというのもなかなか難しいものです。
1時間くらいの時間があったとしても、あれもこれも伝えようとしてもたくさん盛り込めば結局どこにも焦点のあわないボケた話になってしまうし、本当に伝えたいことをひとつふたつに絞って組み立てていかなければなりません。
今回は、概要を伝えようとするあまり話が広がってしまったのでうまく伝わっただろうかと後から考えると反省するところしきりです。
ワークショップでは、各回毎にテーマを絞って少人数でお話していけるので、それを踏まえて行っていこうと思います。
ちょっと会場は狭くなりますが、僕も含めて車座になってざっくばらんな雰囲気で出来たらいいと思います。
当初、7組の予定でしたが参加者が多数の見込みなので、午前午後の二部構成で行うことになりました。
午前の部では、お借りしている会場で飲食もしていいということなので、ワークショップの終了後も昼食時間も含めてフリータイムをもうけ、参加者のみなさん同士で子供についてのお話をしたり、もしあれば僕も子育ての相談を受けたりということができるようにしていくつもりです。
午後の部はお茶の時間として終了後にフリータイムをもうける予定です。
本講座申し込みは、体験会に参加した方には事前受付可能とし、一般の方には定員に満たない分を募集することとなります。
申し込みはこちらより、今月15日の午前8時30分ごろより募集開始となります。
体験会に参加された方でかなり埋まってしまっておりますので、若干名になりますが先着順でとのことです。
興味のある方はリンク先をごらんになってください。
| 2014-10-13 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
相談 チャイルドシートについて - 2014.10.12 Sun
それらのうち返信の必要なものにはこれから返信をしていきます。
(相談についても、記事としてUPするものとコメント欄で返信するものとがあります)
そのため現在、相談のコメントをされても返信まではかなりの時間がかかってしまいます。なにとぞご了承ください。
9月27日 まめさんの相談コメントへの返信
チャイルドシートについて相談です。
1歳4ヶ月の娘ですが、チャイルドシートが大嫌いで泣きます。
5ヶ月くらいの頃に車を購入したのですが、当初からチャイルドシートが嫌みたいで(産まれた時から抱っこちゃんだったのでチャイルドシートに一人で座らされるのが嫌だったのだとおもいます)1時間くらいは余裕でギャンギャン泣き続けます。(運転に支障をきたすくらいの大声です。。たまに1時間ほど泣いたあと泣き疲れて寝ます)
もちろん私は隣に座り(運転は旦那)歌を歌ったり、手遊びしたりおもちゃで気を引いたり工夫をするのですが、少ししか間が持たず、結局泣いてしまいます。
隣に座る私の方を見ながら抱っこしてと言わんばかりに泣くので、私も耐えきれず心が折れ、抱っこしてしまうこともしばしば。チャイルドシートは娘の命を守るため、座らないといけないもの!というのは分かってはいるのですが、ついつい。私は弱い大人です。。
泣いて抱っこしてを繰り返しているのでいつまでもチャイルドシートに慣れないのだろうと思います。
しかし、ギャンギャン泣くのをそのままにしていて娘の精神的に大丈夫なのか、心配になります。いかがでしょうか?
また、チャイルドシートで泣く際の対応などアドバイスいただけると幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
チャイルドシートや車といった慣れない環境では小さな子供はしばしば、不安から泣いたり激しく抵抗を示したりすることがあります。
これはほかに電車などでも同様です。
うちの息子も1歳半頃そういう時期がありました。旅先で車での長時間の移動だったのでそれはもう大変でした。
その多くは時期的なものです。(中にはまれに時期ではなく、子供の個性でという場合もあります)
成長発達とともに、普段以外の環境でも慣れていくということがだんだん可能になっていくものです。
しかし、こういった状況というのはある意味では大人が試されているといえます。
チャイルドシートは子供の命を守るため、安全のために必要なものです。法律でも着用が義務づけられています。
つまりは泣こうがわめこうがやむを得ないことです。
時期的なものであれば、どう対応しようとも時間や成長でいまの感じている問題というのいずれ自然と解消されていきますが、安全・危険などの大人が毅然と子供に向き合わなければならない時点でそれを回避していってしまうというのは、今後の親子関係に難しい課題をのこしてしまうことがあります。
前の記事でも、「大人の負い目から子供の依存を助長する」ということがでてきましたが、今回のこういった関わりでは「大人が負けた状態」から子供の依存を助長していきます。
子供の命を守るという場面ですら大人がその意思を毅然と示せないということは、今後その他の点でも簡単に「大人が負け続ける」という可能性があります。
もし、そのようになってしまえばだんだん子育ては大変な方へと向かってしまいます。
それゆえに「大人が親として試されている」事態なわけです。
>チャイルドシートで泣く際の対応などアドバイスいただけると幸いです。
前の記事の相談とおなじで、これも「子供をどうにかしよう」という姿勢です。もっというと、「大人の弱さゆえ子供と向き合わなければならない事態を回避するために、どうにかしよう」ということになっています。
こういう状況は仕方がないですから、それでどうにかなるのであれば食べ物で釣るなりなんなりしてしまってもいいかとは思います。
でも、たいていは環境変化に対するものからきているので、結局はあまりそれでごまかされるということもないです。
また、おそらく大人の姿勢に「弱さ」があれば、子供はそこに依存をして結局それで思うような姿になることもないでしょう。
これは「子供をどうにかしてしまう」というのが最適解ではなく、大人の方が「どういう姿勢を持つか」というところがこの問題の本質だと僕は思いますよ。
| 2014-10-12 | 心の育て方 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
相談 弟の出産後の上の子への対応(2歳1ヶ月) - 2014.10.12 Sun
はじめまして。
いつも保育士お父ちゃんさんの考え方は素敵だなぁと本当に感心させられる内容で、愛読させて頂いてます。
色々と参考にさせてもらい、思考錯誤しながら日々育児に奮闘しているのですが、ここ数日息詰まってしまい、はじめてではありますがコメントさせて頂きました。現在上の子が2歳1か月と2ヶ月になる息子がいます。上の子の事なんですが、妊娠当初から甘えがすごく、後追いや、ぐずりがあったのですが、下の子が産まれてからさらに、イヤイヤ期も重なり朝起きてから寝るまで、機嫌があまり良くなく私にべったりで私がトイレに行くことさえ拒まれます。おっぱいはもちろん、下の子を抱っこしても泣いてぐずったりします。その都度ママが○○くんにおっぱいあげるの嫌なんだね。さみしいんだね。など気持ちを代弁したり、先回りの関わりをしてこちょこちょしたり、下の子が寝てる間は家事もそこそこに一緒に遊んだりしているのですが、私自身要領もあまり良くない為100%近いくらいの力を上の子に注いでは、結局家事をする気力が無くなってしまったり疲れが溜まって、上の子のかまってに笑顔で答えられなくなってしまう。という悪循環に陥っています。どうしたら家事と育児のバランスが取れて、上の子にも安心感と満足を与えてあげることが出来るのでしょうか。上の子はどちらかというと、私の性格も関係してるのか繊細でちょっとした事で泣いたりします。でも大人の言う事は良く理解していて、素直な所もいっぱいあって可愛いいです。
まず、留意すべき点は、「無理をしない」ということだと思います。
この「無理をしない」というのを言い換えると、「ウソをつかない」ということです。おもに自分にです。
例えば、いま現在は上の子の相手をしたり受容してあげることが少ないだろうという意識でいることと思います。
それがつまりは「負い目」となって大人の側にあります。
その負い目から、無理をして相手をしようとしたりして返って、身体的に疲れたり、精神的にイライラを重ねてしまいます。これはすなわち大人が自分自身を偽っているということ。=自分へのウソ となっています。
その「負い目」から出発する関わりでは、関係の正常化というのはできようがありません。
出産後の体力の低下や、授乳、新生児の育児、睡眠不足などあって、いまは上の子に対しても万全の育児をしようと求めてもそれはもともと無理なことなのです。
それでもトトロさん自身精一杯やっていまがあるのですから、むしろ「負い目」など捨てて開き直ってしまうのがいいと思うのです。
そして、自分に正直になることです。
「いまは疲れているからあんまり相手ができないんだよ。ごめんね」
「気持ちはわかるけど、そんな風にごねられたら私もイライラしてしまうよ」
など、「無理をして相手をする」前に正直に自分(大人)のいまの状況を伝えてみましょう。
それですぐに子供の姿が解決しないかもしれないけれども、子供はそのようにいわれたことと、自分のしてほしいことというのを、心の中で葛藤しすりあわせるというプロセスを持ちます。
それがちょっとずつでも蓄積されていけば、子供の心の成長(=自立)となっていきます。
しかし、「負い目」から子供に関わっていると、子供は無意識にですがその「負い目」を「大人の弱み」と的確に認識しますので、その弱みに乗っかることで、依存心を高めてしまいます。
現状ではその依存心の高まりから、大人を困らせる行動が多くなっています。
なので負い目から無理をして関わることは、結局プラスにはなりません。
無理はせずともそのうえで、できる範囲で関わっていけばいいのです。
>上の子にも安心感と満足を与えてあげることが出来るのでしょうか。
↑これはある意味では「負い目から子供をどうこうしよう」という大人の姿勢です。
そういう方向で関わろうとするのではなく、まずは大人自身の気持ちの持ちようとして、現状自分は精一杯やっているのだというところから出発して、現状をなにかが足りないと考えるのではなく、子供に現状を伝えそれを受け入れさせる方向で関わっていくのが、これを乗り越える方法でありまた子供の心を成長させることでもあると思います。
余裕のあるときにでも、上の子が赤ちゃんだったときのことなども話してあげるとその理解の助けとなったりもしますよ。
| 2014-10-12 | 相談 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
広告について - 2014.10.10 Fri
タブレットだとスマホともPCとも違うのですね。
僕はタブレット持っていないので、状況は確認できないのですが何人かの方から教えていただいてだいたい状況がわかりました。
森のくまさんさんに広告の表示免除というものがあることを教えていただきました。
森のくまさんさんありがとうございました。
現在申請中です。それによると、
・教育関係
・公共の福祉に適っている
・FC2ブログに関してのお役立ちブログ
これらに該当するブログは広告の表示が免除されるそうです。
・教育関係 ・公共の福祉に適っている
に該当すると判断していただけるとよいのですが・・・。
タイトルが子育て日記になっちゃってるからよくないかな・・・
しばらく結果がでるまでお待ちください。
また、広告表示を免除される際は、管理者には連絡なしでなくなるそうなので、タブレットで確認できない僕からはわかりません。
もし、該当の広告がなくなりましたらどなたか気がついたときにでもコメント欄でお教えください。
| 2014-10-10 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
幼稚園での半年間 - 2014.10.08 Wed
PCでは広告の設定は外してありますので、PC以外からのアクセスなのかと思われますが、携帯で自動に挿入されてしまう広告に関しては僕の方からは操作できません。
具体的にどのようなものなのかわかりませんが、たまたまなにかうるさいタイプの広告が入ってしまったのかもしれません。
もしくは、アクセスの経路によっては広告の多い場合があったり、ご自身の機器の設定で改善されるかもしれません。
僕の携帯から閲覧する限りでは、タイトル直下に四角いバナー広告(ブログ管理者からは操作不可)が入っているだけで、全体にエフェクトがかかったりということはないので、とくに閲覧には支障がないのですが、もしなにか同様の不具合の状況など出ている方がいらっしゃいましたら、具体的にお知らせください。できる範囲で対応してみます。
入園当初のこと以来あまり触れていなかったので、むーちゃんが幼稚園でどのように過ごしてきたかということのリクエストをいただきました。
とくに入園までとりたてて積極的に子供と遊ばせる経験を持たせたりせずにのんびりすごしていたので、そういう子がどうなるのかというところなども興味がかき立てられるのだと思います。
順を追って入った当初のことから振り返ってみると、朝は多少さみしそうな表情を見せはしますが、親の前では泣いたりせずに入室していっていました。
でも、親の姿が見えなくなると泣いてしまったりすることが最初の1~2ヶ月ではときどきあったようです。
それでも基本的には活動に入ってしまったり、遊びの時間になってしまえば楽しく過ごしているとのこと。
クラスの友達のなかには、最初から全然平気な子もいれば、当初は平気だったけどしばらくしてから毎日大泣きになってしまった子、ずっとメソメソしている子もいたようです。
なにか問題があってのことならば別ですが、こういうことは誰しも通る道ですので、親はどーんと構えていればいいことだと思います。
へたに親が不安になって、そこでその子供が自分で乗り越えなければならない状況に手をさしのべて親が子供のその心の成長を肩代わりしてしまおうとしたら、それは子供の心に「依存」を生み、子供は心の中での葛藤をやめてしまい、心の成長を回避させ遅れてしまいます。
ですので、子供のそういった姿は大きく構えて見守ってあげるのがいいでしょう。
それまであまり同年代の子供たちに接することの少なかったむーちゃんですが、僕は友達関係も心配していませんでした。
一番最初に遊ぶようになったのは、他者への積極性が自分と似たようなところにいるおとなしい女の子とでした。
子供はだいたい似たもの同士で惹かれ合っていきます。
その子がいるということで、幼稚園にいき遊ぶことに対する不安もだんだん少なくなっていき、その女の子からしてもむーちゃんがいることが力になって慣れない園での生活を乗り越えていったようです。
入園して2ヶ月が過ぎようとしていたころ、園にも慣れてきて友達関係がひろがってきました。
むーちゃんはもともとお兄ちゃん子だったこともあり、じっくりも遊べるけれど、本来は活発な遊びを好むタイプです。
自由遊びの時間にはまっすぐ園庭に飛び出していく方なので、次に仲良くなったのが男の子たちでした。
それに最初に仲良くなった女の子もひっぱられるかたちで、滑り台やブランコ・砂場などをして何人かで遊んでいたようでした。
しかし、そんな状況でも完全にくつろいで過ごしていたというわけではなく、子供なりに気を遣い頑張っている部分もあったようです。
身体的に疲れてしまうというのと、もともと昼寝の習慣がきっちりついていたこともあったせいか、降園すると園庭開放で遊ぶこともなくまっすぐ家に帰って昼寝をしていました。
すっかり園に慣れたとわかるようになったのは、夏休み明けからです。
9月からは降園後の園庭開放で遊びたいということも出てきて、仲のよい友達と自由に遊ぶ姿がでてきました。
友達関係だけでなく、その他の園の生活にもすっかり慣れ安定したサイクルの生活ができるようになっています。
そうそう、入園当初のエピソード。
家でひとりで遊んでいるとき、「先生ごっこ」をよくしていました。
ぬいぐるみでやったり、人形でやったりバージョンはいろいろなのだけど、おもしろかったのは水族館のシールブックのメンバーを並べて遊んでいたとき。
朝の会の様子らしい、
「まぐろさーん。ハーイ さんまさーん。ハーイ エビさーん。ハーイ ・・・・・・」
出席を取って、園歌や幼稚園で教わった歌をむーちゃんが先生と、さかなの子供たちの一人二役?で歌ったり教えたりしていました。
慣れない環境に入っていく子供にとって、そこにいる担任の先生というのは大きな信頼の対象なのですね。
| 2014-10-08 | 我が家の子育て日記 | Comment : 17 | トラックバック : 0 |
明日は皆既月食 - 2014.10.07 Tue
観察しやすい時間にあるので、部分食から皆既食になるあたりだけでも見てみるとおもしろいかもしれませんよ。
詳しくはこちら
国立天文台
現代の人は、日にちというのをカレンダーで当たり前に考えているのだけど、まだ太陰暦を用いていた明治以前の日本人というのは、日にちの感覚を月の満ち欠けで考えていたのですね。
もちろん暦というのもあるのだけど、むしろ日常の感覚としては月が何夜かということで考えていたようです。
その人たちにとっては現代人よりもはるかに月というのは身近な存在であったことでしょう。
そこで生きる人たちの時間のスピードの感覚というのも、きっと現代の我々の感覚とは違かったのでしょうね。
そんなことも考えて月を見てみると、またちょっと不思議な気持ちになれます。
ドイツの哲学者 M・ハイデガーはこんなことを言っています。
「機械で時間をはかる愚かな人間(現代人)たち」
これの意味するところは、「時間」というのは正確な1分1秒のことを必ずしも指しているのではなく、その人間の属する文化や共同体から規定されるところの時間の感覚というものを持って、それの上で生きていたのであり、現代人が当たり前に思っている時計で計れる時間がすべてでは無いということなのですね。
このような時間の感覚のことを「神話としての時間」(神話というのはメタファーとしての意で、その文化や共同体を統括しているひとつの絶対的に近い価値観というようなものを指している)と呼んでいました。
いまでも沖縄の人が、時間も指定せずに待ち合わせをして、三々五々あつまってきてもそれで待ち合わせが成立してしまうような時間感覚というものがそれに近いのかもしれませんね。
そんな風にゆったりとした生活ができたらいいなぁと月を見て感じるこの頃です。
| 2014-10-07 | その他 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「幸せ」ってなんなんだろう vol.3 - 2014.10.06 Mon
「子供に感心が持てない」というわけではなく、最初から「子供に感心を持たない」になっているのですから。
前者は意思はあるけど「できない」ということですが、後者は意思自体がないわけです。
結果的に同じ状況になってしまったとしても、この違いはとても大きなものです。
子供にもそれはわかりますし。
ですので、あの事例のようなケースはそうそうはありません。
しかし、最近では別のタイプのものがだんだんと増えてきています。
これは、特殊なものではなく多くの家庭に起こりかねないものです。
今回はそれについて書いてみようと思います。
それは「子供が見えない」というものです。
もう少し言葉を惜しまないで言うと、「親が付加価値のついた子供を求めるあまり、子供そのものを見ない」というものです。
例えばこんなことがあります。
ある男の子です。仮にJ君としましょう。
この子が3歳の年少になったころから、早期教育の塾に通い始めました。
お母さんはフルタイムで忙しく働いている人で、子供には関心がないわけではありませんが、淡泊で少し冷淡なところがあります。
子供への関心というのも、子供と楽しく遊んでいい笑顔を見せてくれるのを望むというようなタイプの関心ではなくて、早期教育をはじめたことからもわかるように、「〇〇をできるようにする」といったタイプの関心です。
子供というのは、多くの子に「親に自分を認めてもらいたい、受け入れて欲しい」という強い願望・欲求があります。
この家庭のように、ベタベタするような情の関わりの道が無い状態で、親が「〇〇をできるようにする」といった方向での願望を見せると、子供はそちらに自身の持つモチベーションのリソースを費やして「頑張って」いきます。
それを頑張ることで、親にいい視線で振り向いてもらいたいのです。
このお母さんもまじめな人ならば、このJ君もまじめな子でした。
日々長時間の保育を受けている上に、家に帰ってからや休みの日にお勉強に駆り立てられても、「いやだよー、今日は疲れたよー」などと言ったり、なにか理由をつけてごねることもなく、一生懸命に親の望むよう振る舞っていきました。
でも、もしかするとそれはそのような姿をだすと、それに対してお母さんは冷淡さで対抗してくるので、それらを出したくても出せなかっただけなのかもしれません。
お父さんは冷淡なタイプではありませんでしたが、「付加価値のついた子供」を望んでいる点では同じようなところがありました。
こんなエピソードがあります。
「このように勉強を頑張ってできる我が子」というのが、自身のなかで高い価値を持っていたのでしょう。
友人と居酒屋に飲みに行くときに、その子も連れて行ってそこで勉強をさせその様を友人たちに見せて自慢をするのです。
子供に本当に学力をつけたいと望むならば、その環境も整えようと考えるもので、
普通はそのような場所で勉強をさせようとは考えないでしょう。
これは自らの自尊心を満足させるために子供を利用していること、になってしまっていると思われます。
子供はそういうことを理解しないだろうと思う人もいるかもしれませんが、明確に論理的に理解はしていないとしても、子供も感覚的にそれがどのような意味を持っているかということはきちんと感じることができるものです。
このJ君が年長になった頃、それまで心の中に押さえ込んできたであろうものがふきだしてきました。
あるときから急に乱暴な行動を重ねるようになったのです。
いわゆる「キレる」といった姿がひんぱんにでてきました。
はじめは家庭ではださずに、もっぱらそれを園で出していました。
次第に家庭でも出すようになりましたが、親はそれに対して激しく叱ったり威圧的に関わることや、冷淡に疎外することで対抗してしまいます。
そうして押さえ込まれた感情を、家庭では出すことが許されないので、今度は園でさらなる問題行動として重ねていきます。
このときの親の心情としては、自分としては「子供ため」であることを子供にさせているのだという「正しさ」を持っています。
そういった自分自身の立つ位置が「正しい」ものであると信じているがゆえに、実は「付加価値のついた子供」しか受け入れないという自分のあり方に気がつきませんし、それを認めることもできません。
それゆえに、「本当の子供の姿が見えない」という状況に陥ってしまっています。
結局この親は就学するまで自分たちのそういった関わりを見直すということはしませんでした。
「勉強は"正しい"ことだからさせる、それとはまったく別の問題である子供の乱暴な姿は"悪い"ことだから押さえつける」というスタンスでいってしまったのです。
人間の心というのは正直です。
もし、他者から「負の感情」を向けられたら、それと同等の「負の感情」を別のところで出してバランスを取ろうとしたり、もしそれを溜め込んでしまったらいずれそれをどこかでなにかのかたちで出そうとします。
なんらかの問題のない形でそれが消化できていればいいですが、子供にはあまり選択肢が多くないので、消化しきれないこともあります。
「子供のありのまま」を見るのではなく、大人が無頓着に「付加価値のついた子供」を求めはじめると、子供の育ちはねじれたものになりやすいです。
最近では、このようなケースが徐々に増えているように感じます。
おそらくは、いまの親世代の大人自身が多かれ少なかれ「付加価値のついた子供」であることを求められはじめた時代に育ってきているということがあるのではないでしょうか。
自身の生育歴というのは、簡単には乗り越えられるものではありません。
「自分がされたこと」というのは、その人のなかで無条件に「正しいこと」になりやすいのです。
叩かれて育ってきた人は、子供を叩くことにあまり疑問を持ちませんし、「付加価値のついた子供」であることを求められて育ってきた人は、自分の子供にもそうあることを望んでしまいやすいのです。
前回の事例と違って、このたぐいの「子供がみえない」というケースは、多くの人になり得る要素のあることです。
このことを少し頭の片隅にでも置いといてもらって、ありのままの子供が見えなくならないようにしておく必要があるかと思います。
| 2014-10-06 | 心の育て方 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
「幸せ」ってなんなんだろう vol.2 - 2014.10.04 Sat
コメントに追記しました。ごらんになってください。
「幸せ」ってなんなんだろう
こちらの記事には、僕が思っていた以上に多くの皆さんが感心を示してくださって、ブログ拍手の数も短期間で100件を超えて、多数のコメントでみなさんの感じたことや、ご自身が経験してきたことを伝えていただきました。
僕にはあるうまく説明できない気持ちがあったのです。
そのもやもやが、あの記事を書かせる影の原動力ともなっていたのですが、それはこういうものです。
多くの子供と関わる仕事をしてきて、あの記事であげたような事例をはじめ子供がつらい状況に置かれていたり、それゆえに子供の成長がねじ曲がったものになってしまっているケースにたくさん触れています。
なかにはいい方に援助できるものもありますが、前回の事例のように子供が心を押しつぶしていくのをただ傍観するしかできないようなケースもあります。
そんな仕事を終えて、我が家に帰ってきて子供たちの笑顔を見ると、押し殺したため息のような「かわいいなぁ」という感情が湧きでてきます。
妻も保育士ですが仕事でそういう経験をしてきて、やはり子供たちの屈託のない笑顔に触れるだけで涙が出そうになるといいます。
この感情を僕はこれまでどうしてもうまく言葉で説明することができませんでした。「理屈と膏薬はどこにでもつく」を地でいくような僕ですが、この感情だけはうまく言葉にできません。
この前の記事のコメントのなかで、かいさんが
>正直、このブログで私が一番ガツンと来るのはこういった辛辣な事例です。「〇〇が出来ないから何だっていうんだ!私は子供の心を守るんだ!」って自分を叱咤できるんです。
悲しいことかも知れないですが、歪んだ幸せの一方で、それを目のあたりにした他人が、幸せの軸を前よりも安定させる。
このコメントを拝見して、このように伝えてくれたことが僕のその感情の背景にあるものなのかもしれないと、とても腑に落ちました。
僕は最近、家族でそろって食卓を囲んで楽しく笑いながら過ごせることにとても大きな幸せを感じます。
かつてある料理研究家の方が「料理は愛情!」というキャッチフレーズを言っていましたが、この歳になって、ああそれはこういうことなんだなと今更ながらにかみしめています。
とりたてて豪華なものでもありませんが、家族の健康やおいしいと喜んでくれる顔を考えながら料理をつくるというのは人としてのなにか大切なものを教えてくれているように感じます。
| 2014-10-04 | 心の育て方 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
物語の世界は積み重ねで深まっていく - 2014.10.02 Thu
僕は年長の5歳くらいでアーノルド・ローベルの『ふたりはともだち』などの作品が楽しめる子供に育てることをひとつの目標にしています。
(ローベルにはたくさんの作品がありますから、それ以前の年齢でも楽しめるものもあります)
ローベルのお話の特徴は、「おもしろい」というよりも、「味わいがある」と感じるようなものが多いと僕は思います。
例えば、明確な「落ち」の無いお話というものも多いのです。
普通お話は、「落ち」でおもしろく感じさせたり、語感やストーリーで「おもしろみ」に変換してしまうことが一般的ですが、ローベルは必ずしもそうではありません。
言葉として明確に表していないものを、絵の雰囲気やその世界観に触れることでじんわりとつたえてくれるのです。
また、文章で直接触れてはいない、登場人物たちの心情を自然に読者に伝えてきます。
こういった味わいがまさに物語の本質であるような気もします。
しかし、こういうものは「5歳になったから」「6歳になったから」といって必ず伝わるというわけではありません。
人の心への理解や、感性、想像力といったものがつちかわれてきてはじめてそれらの年齢で物語を深く楽しめるようになります。
それが育ってきた子供に読んであげると、なにかおもしろがらせる部分ではないのに、きちんとそういう場面では笑ったり、ほほえんだり、物語に引き込まれる表情などを示します。
それがそうでない子には、そこにはなにも感じることがなく「飽き」を示しだしてしまいます。
子供によりお話の好みもありますし、物語自体を好まない個性の子もいますから、興味を示さないからといってそれがよくないということではありませんが、「感性をつちかってきたけど、それが好みでない」というのと、最初から「なにも積み重ねてこずに興味を覚えられない」というのではまったく違う話です。
ましてや強い刺激に慣れきってしまった子には、なかなか物語に没入して楽しめる感覚を与えることができません。そういう子は刺激と興奮でないと惹きつけられなく育ってしまいます。
前回のところで述べたように、大人が子供に与えるものに無頓着でいてはその感性をつちかってあげることは簡単ではありません。
メディアが演出するような、派手さや刺激、子供の持っていない大人の世界のものを示してそこに気を惹きつけるような方法で子供の感性を作ってしまえば、アーノルド・ローベルが示すような物語を受け入れることは難しくなってしまいます。
子供が喜ぶからと、小さいうちから戦いをドラマとして提供するような手法も僕は好ましいこととはどうしても思えません。
それらはあとからでもいくらでも楽しめるようになります。
しかし、逆は難しいのです。
だからこそ、小さい子供へあたえる文化というのは大人がしっかりと見据えていくべきだと思います。
物語というのは、その本やお話だけで完結するものでもありません。
読んでくれる人とのつながりや、その場の雰囲気、それにともなう思い出、その物語のなかで起こることと自分の経験の重ね合わせ、そのようなさまざまなことが物語のおもしろみとなって子供のなかには形作られます。
『相談 寝転がるばかりで一人で遊べない(2歳) ー遊びの原動力ー』
この記事で書いたような、原体験が再現されることでのおもしろみ、充実感といったものもあります。
ただ「子供が喜ぶから」ということだけで子供に与えるものを選んでいたら、それは「子供だまし」になってしまいます。
ヒーローものの関連グッズなどを手に入れるために、大人が並んで買いに走ったり、品薄になってオークションで高値がつくなどといったニュースもしばしば耳にします。
そういうのを聞くと、「子供だまし」に乗っかっている大人は、実は気づかないうちに術中にはまって「大人だまし」にあってしまっているのではないかという気もします。
| 2014-10-02 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
子育てワークショップ vol.2 - 2014.10.02 Thu
申し込みにもれてしまった方には大変申し訳ありません。
今回は、少人数制の企画だったのでちょっと特殊だったかもしれませんね。
今後、僕の方でも本の出版以降、講演活動等を本格化していきたいと考えておりますので、今回申し込みに遅れてしまった方もきっとこれが最後の機会というわけでは無いと思います。
まだ、今後の企画については未定ではありますが次の機会をお待ちください。
また、もし保育園・幼稚園などの親向けの勉強会や、子育て関連イベントでの講演などご希望の方がおりましたらできる範囲でご協力いたします。その際はコメント欄にメールアドレスを記入してこちらに連絡をください。
僕は東京在住ですので、可能な日程でいける範囲であればうかがいたいと思います。
書籍化の方は今のところ順調に進んでいます。
予定通りにいけば、1月上旬に出版の運びとなります。
以前、このブログのどこが参考になったかというアンケートにいただいたコメントは大変参考になりました。
3日で100件を超えるコメントをいただいたことについては、担当の編集者さんもたいへん驚いていました。
それだけ世の人の、子育てに対する関心というものが大きいのでしょうね。
執筆に当たって、主要な過去記事をいくつも見直してみましたが、それらがブログ開始初期に書かれたものも多く、わかりにくかったりする点が多々あって、それでも役に立ったといってくれる人が多いことに恥ずかしいやら申し訳ないやら。
もともと、このブログも大系立てて書いてこなかったので、関連記事があちこち飛んでいたり、数が多すぎて必要とする情報を見つけにくかったり、いろいろ不備な点がありました。
今回、受容や信頼関係を基礎とした「叱らなくていい子育て」を中心にまとめ、紙数の関係で書ききれなかった点もありますが、おおむね要点になるところはまとめられたのではないかと感じています。
まだ、修正作業など残っておりますのでよい本が出せるよう努力していきたいと思います。
| 2014-10-02 | その他 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
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