みてはねるっ!というように軽快な調子で歌い、「はねるっ」の部分で子供たちがピョンと飛ぶ、わらべうた・あそびうただったのです。
なぜそれが変わってしまったのでしょう。
それは文部省唱歌として採用される際に、そのままでは西洋式の楽典にあわないとして、楽譜の帳尻を合わせるために、
み~て~は~ね~る~
と伸ばされてしまったのです。
その結果、残念なことにこの歌は子供が歌いながら楽しめる遊び歌ではなくなってしまいました。
もうひとつ。
「にらめっこ」誰でも知ってますよね。
変な顔して笑ったほうが負けとなっていますが、あの遊びしていてどことなく違和感感じたことありませんか。あれってどちらも笑う気満々でいないと、あんまり勝敗つかないのですよね。
だるまさん だるまさん にらめっこしましょ
わらうとまけよ あっぷっぷ
それで、どちらか先に笑ったりした方が負けということになっていますが、実はもともとは違います。
わらうとまけよ あっぷ!
で終わって、そこで息を止める遊びだったのです。
先に我慢できなくなってしまった方の負け。長く息を止められたほうが勝ちです。
明治以前はそういう歌で遊びだったのですが、やはり上と同様に、西洋式の楽譜にしようとした時に(書こうとすれば書けますが)音が足りていないのでおかしいというわけで、
あっぷ >>> あっぷっぷ
になってしまったのです。
あっぷっぷ では息が止めるのには無理があるので、いつのまにか遊びそのものが変質してしまいました。
はっきり言ってこんな些細と思うようなところまで、当時の日本人は一生懸命やっきになって、古い日本を否定してそこから脱却して、近代化・西洋化を目指したのですね。
今考えればちょっと極端だと思うのですけど、その時の人たちはこういうことをしなければならないのだと本気で思っていたのですよね。
初代文部大臣の森有礼は、本気で日本語をやめて国民が英語を話すようにしようと考えていたらしいです。
このころに人々の、歩き方・走り方まで変わっています。
それまでは、右手と右足が同時にでるいわゆるナンバ走り・ナンバ歩きという歩き方だったのですが。
着物を着ているときには、そのほうが着崩れないのだそうです。
しかし、それでは西洋式軍隊の行進はできないので、学校教育の中で歩き方を変革していったのです。
そもそも、江戸時代の一般庶民は「走る」ということがなかったそうです。
走るのは武士や飛脚などの特殊技術のような扱いでした。
江戸時代の火事で逃げまどう絵に描かれた人々が、両手をあげているのは、体重を前にかけ前傾姿勢をとることで少しでも早く動こうとしたからだとか。
そういうわけで、学校の運動会に家族が来て観戦するのは、一説には西洋式のそういった走り方、体の動かし方を子供以外の人々にも知らしめるためだったそうです。
現代人は大変早い社会の変化の速度にそれなりに順応してしまっていますが、のんびりと江戸時代を過ごしてきた当時の一般市民にとっては、明治っていうのはものすごい時代だったのでしょうね。
いまではあまり知られなくなってしまいましたが、まさにこの時期は「創造するためには破壊する」の見本のような時代です。
僕は日本の近代美術が好きなのですが、当時は日本の伝統的なものはみな良くないとされた時代だったので、いまでは重要文化財の絵を残しているような人たちが、二束三文の皿の絵を描くことでなんとか生計を立てていたり、大変優れた工芸品であった「印籠」や「根付」などが、(和装から洋装になった影響ももちろんありますが)「土俗的で卑しいもの」と見捨てられたりしたのを大変残念に思います。
いまでは江戸期の「根付」の優れたものはもうほとんど日本にはありません。
本当にびっくりするほどないんです。
東京国立博物館ですら、古いものは500もありません。(
近々その全部と高円宮コレクションの現代根付が合わせて公開されます。興味のある方は貴重な機会なので是非どうぞ)
対して、イギリスの大英博物館には2000点、同じくイギリスのヴィクトリア&アルバート美術館には1000点、アメリカのメトロポリタン美術館には2500点、カウンティ美術館には600点と大量にあります。
仏像も、当時の廃仏毀釈の影響で、いま日本にあれば重文クラスのものが大量に海外に流出してしまいました。
そういった潮流から脱して、日本美術が見直されるには明治30年を過ぎて、フェノロサ・岡倉天心の日本文藝復興運動を待たなければなりません。
余談ですが、震災で流されてしまった岡倉天心ゆかりの北茨城にある六角堂が、創建当時の姿に忠実に修復されたとのことで、ひょんなことから大学時代の友人たちと今度旅に行きます。
久しぶりにみなで熱く語ってこようかと思います。